2017年3月26日 (日)

梅と桜の話

早いもので、もう3月も残りわずかとなりました。

「月刊 Au Petit Matin」状態になっているこのブログですが、
みなさま、お元気でお過ごしですか。


前回の記事の頃は各地で雪が降っていましたが、
すっかり春の花だよりが聞こえてくる季節になりましたね。


私も先日、ちょっと遠出して、梅を見に行って来ました。


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梅の花には、桜とはまた違った高貴さや凛とした品があって、
馥郁とした澄んだ香りも、本当に魅力的ですね。

生け花の小原流では「梅は枝を生け、桜は花を生ける」と言うそうですが、
確かに、梅の木の見事な枝ぶりには、見惚れるような美しさと
なんともいえない風情がありました。


京都にいた頃、梅の季節にはいつも
北野天満宮の梅苑を訪れていました。


梅の香りに包まれた苑内を散策した後、「老松」の香煎茶と
軽くサクサクしたお菓子「菅紅梅」をいただくのが楽しみでした。
 

ここに祀られているのはご存知のとおり菅原道真ですが、
大宰府に左遷されることになった道真が、京を発つ時に詠んだ有名な歌、

 「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ梅の花
  あるじなしとて 春な忘れそ」

  (春になって東風が吹くようになったら、その風に託して
   花の香りを(大宰府まで)届けておくれ、梅の花よ
   主人の私がいなくても、咲く春を忘れるな)


失意の中にも、道真の、梅の花とその香りを愛する思いが
伝わってくるようです。


梅の花の後には、満開の桜が日本中を彩る
まさに春爛漫の季節がやってきますね。


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もう各地から、少しずつ桜の開花だよりが伝えられていますが、
みなさまのお住まいの地域はいかがでしょうか。


印象に残る桜・・・といえば、私にもいろいろありますが、
そのうちのひとつは、京都、祇園の桜。

白川沿いの夜桜です。


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細い白川の流れに沿った桜並木の花の色が夜の灯りに浮かんで、
水面にその姿を写した、花街の、どこか艶めかしい、
濃密な空気が漂う通り。


辰巳神社にほど近い、壁一面のガラス張りの窓から
白川の夜桜を望むバーのカウンターでは、
祇園で生まれ育った男友達と、
よく一緒にお酒を飲んだものでした。


はたちを過ぎて知り合ったのに、どこか幼馴染のような
遠慮のいらないその友達は、結構いい男で、いつも恋人は
いるのだけれど、なぜかなかなか結婚しない。

かと言って、本人としては、ずっと独身でいたいわけでも
決してないらしく・・・

そんな彼に、「ストライクゾーンが狭すぎんのとちがう?」などと
私も言いたいことを言って、時にははっぱをかけつつ、
お互いの恋愛や結婚のこと、仕事のこと、家族のこと・・・など、
あれやこれやと話をしながら、桜を眺めたりしたものでした。


心の内を素直に話せて、時には、お互いの恋人にも
打ち明けないような話をしたりもする、男女を超えた
親友みたいな関係だと、私たちは 信じ込んでいたけれど、

時折、“もし私に相手がいなかったとしたら・・・”と、たとえ話をする
彼が、私を「いい女」だと思っていることを私は知っていたし、
私にとっても、彼は客観的に見ても「いい男」で、やっぱりどこかで、
お互いに 「男と女」を意識していたような気がします。

今、この年になって思えば、ずっとずっと若かった私たちは、
何かの一歩が踏み出せなかっただけで、そして、その一歩を
やみくもに踏み出せないくらいには大人になっていて、きっと、
ただ、いろんなタイミングが少しずつ ずれていただけだったのでしょう。



年月が流れ、お互い、家族との別れや
それなりの人生のしんどさなどを 経験しながら、
年を重ねました。

人生の折り返し地点を過ぎようとしている私たちには、
それぞれに愛する大切な人がいて、きっともう「男と女」に
なることはないけれど、 重ねた人生の長い時間をゆるく
共有しつつ、お互いの年月や痛みに共感しながら、
やっと、本当の親友になれたのかもしれません。


今もやっぱり、言いたいことを言い合える感じは変わらずで、
最近では、彼のご贔屓の舞妓ちゃんの年を聞いて、
「おじさん、それ、犯罪やなぁ」などとからかったり・・・


こんな色気のない今の私達とは違って、祇園の桜は、
長い年月の間、いろいろな男女の艶めいた思いを
ずっと眺めてきたのでしょう。




そんな祇園を抜け、四条通の東端、八坂神社の奥にある
円山公園には、有名な枝垂れ桜の大木があります。

私自身はもう何年も見ていませんが、夜、ライトアップされた
その姿を見ると、どこかこの世のものとは 思えない
妖しい美しさを感じる・・・といわれるのも納得がいくような桜です。



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夜桜見物の宴会があちこちで開かれている公園は賑やかだけれど、
もし、暗闇の中、ここでたった一人だったら、と想像すると、
その美しさに、かえってぞっとするような気持ちになったり・・・

そんなふうに、桜の花には、死生観だけではなく、
どこか妖しい世界も感じさせる 何かがあるようです。

坂口安吾は私の好きな作家の一人で、気に入った作品は
たくさんありますが、桜の花と言えばやはり
『桜の森の満開の下』


桜の美しさと恐怖とその中の孤独が、
あれほどうまく描かれた 作品は、
私には他にあまり思いつくことができません。


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祇園の桜以外にも、京都の町にはいたる所に桜の名所がありますが、
私にとっては、高野から下鴨へと続く下鴨疎水沿いの 並木も、
結婚したばかりの春、夜桜を眺めつつ夫と歩いた
思い出深い通りのひとつです。




桜の花は、たとえ有名な場所でなくても、 思い出深い所が
人それぞれにあるのでは、と思います。

私達日本人にとって、遠い昔からどこか特別な存在だったのでしょう。
古来さまざまな和歌や俳句、 作品の中にも、桜の花は登場しています。



そんな桜のお話ですが、すっかり長くなってしまいそうなので、
今日はこの辺で・・・

桜の花が満開になった頃、またここへ来て
お話させていただきたいと思います。



それでは、みなさま、どうぞよい春の日を。

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2017年2月 2日 (木)

『この世界の片隅に』

前回の記事を書いてから、はや2か月。

「今年もどうもありがとうございました」も
「本年もどうぞよろしく」も言わないうちに、
1月が過ぎ、あっという間に2月になりました。


ずいぶんとご無沙汰しておりましたが、
みなさま、お元気でお過ごしでしょうか。



数か月ぶりの今日は、少し前に見た映画のお話を
させていただきたいと思います。

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『この世界の片隅に』

いろいろと話題になっているこの映画、
もうご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんし、
原作となった、こうの史代さんの漫画を読んだことのある方も
いらっしゃるかもしれませんね。

私は、映画鑑賞後に原作を買って読み、
その後、再び映画を見ました。


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本当に久し振りに、映画館へ2度足を運んだ作品です。

終わった後、まさにスタンディングオベーションしたくなるような
映画でしたが、その気持ちとは裏腹に、何とも言えない余韻に
圧倒され、放心したような感覚で、ただ、座席に座ったままでした。


通常は、エンドロールが始まるとすぐ座席を立ち去る人が
出始めるものですが、私が見た映画館では、エンドロールが終わるまで、
席を立とうとする人はほとんどいませんでした。

私と同じような気持ちを感じた人が、きっと幾人もいたのでしょうか。




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この映画は、昭和19年、18歳で広島から呉へと嫁いできた「すず」の物語です。


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戦時下のさまざまなものが不足する中で、創意工夫を凝らして
日々の食卓を作り、明るく前向きに暮らす「すず」たちですが、
日本海軍の拠点である呉の街は、やがて、たびたびの空襲に
みまわれるようになり、彼らの日常生活も変わってゆき・・・

・・・と、簡単なあらすじ風に書くと、
「戦争の悲惨さ」や「平和の尊さ」を伝えることに重きを置いた
いわゆる戦争(反戦)映画のように聞こえますね。


もちろん、映画を見た多くの人の中には、
「反戦を叫ばない反戦映画」という言葉で表現したり、
「平凡な生活が壊されていく戦争の悲劇を二度と繰り返しては
いけないと思った」といったような感想を持っている方もいらっしゃるので、
それはそれで、もちろん間違いではないと思うのです。


ただ、私がこの映画に感じた「胸に染み入るような感覚」は、
そこから来たものとは、少し違うような気がしました。



「素晴らしい映画だった」・・・と、文句なしに思うのに、
じゃあ、どこがどう素晴らしいのか、何にこんなにも心を動かされたのか
・・・と考えると、はっきりそれを掴みきれず、もやもやと考えがまとまらない。
うまく言葉にできない。

そんな映画は、これまであまり経験がありませんでした。



例えば、世間では、この映画の「戦争の時代を生きた人々の暮らしを
丁寧に描いたリアリティー」を評価する声もたくさんあるようです。

確かに、戦争を知らない私にも、戦地における特別な一面を
切り取った物語ではなく、強い反戦のイデオロギー色もない、
「すずさん」という一人の女性の生活を描いたこの作品は、
その時代をより身近に感じさせてくれました。


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戦時下にありながらもユーモアを交えつつ描かれる庶民の日常からは
「普通の人々」の暮らしぶりが生き生きと伝わってきたし、
地道で綿密な調査をもとに忠実に再現された当時の広島と呉の町並みや
対空砲火の煙や空襲などの軍事的描写もとてもリアルでした。



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そんなふうな、細やかに描かれたさまざまな場面や、
当時の人々の息遣いが伝わってくるようなリアリティーも
この映画の大きな魅力のひとつでしたが、

改めて考えてみると、私がいちばん惹かれたのは、
この物語の中に流れる「生きること」に対する思いだったような気がします。



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印象深い言葉が、この映画の中には、いくつもありました。



すずの幼馴染で、海軍に入隊し軍艦「青葉」の乗組員となった哲は、
停泊中に入浴と一夜の宿を求めて北條家(すずの婚家)を訪れた際、
すずが、炊事をし、風呂を焚き、日々の家事をこなすのを見て、
また、“当たり前”のことで“当たり前”に怒るのを聞いて、言います。

「すずは、普通じゃのぉ・・・」

「お前だけは、最後まで、この世界で普通で、まともでおってくれ」



その気持ちは、原作の中では、もっと多くの言葉で、語られていました。

 「ヘマもないのに叩かれたり、手柄もないのにヘイコラされたりする
  わしはどこで人間の当たり前から外されたんじゃろう

  ずっと考えよった

  じゃけえ すずが普通で安心した

  すずがここで家を守るんも、わしが青葉で国を守るんも、
  同じだけ当たり前の営みじゃ

  そう思うて ずっとこの世界で普通で・・・
  まともで居ってくれ

  わしが死んでも、一緒くたに英霊にして拝まんでくれ
  笑うてわしを思い出してくれ・・・

  それが出来んようなら、忘れてくれ」


普通でいること、日々の営みを当たり前に築いて生きていくこと、
そんな「普通」を、限りなく困難なものにしてしまうのが戦争なのでしょう。


「普通」が「普通」でなくなっていく時代の中で、

すずの夫である周作の母親は、息子たちが子供の頃に
夫や周りの人たちが解雇された時のことを振り返り、
こう言います。

 「大ごとじゃったよ。
  大ごとじゃ思うとった・・・ あの頃は

  大ごとじゃ思えた頃が なつかしいわ」



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この物語の中の人々が触れるのは、戦争についての
直接的な思いだけではありません。

主人公のすずをはじめ、彼らはみな、それぞれが生きた時代の一部に
たまたま戦争があったというだけです。

だからすべてが不幸であるとか、反対に、戦争がなければ
完全に幸福だったか、というと、それはどちらも違う気がします。

「戦争」のない時代にも、人は人生のさまざまな悲しみや苦しさを
かかえて生きていることには、変わりがないのではないでしょうか。



 「過ぎたこと、選ばんかった道。みな醒めた夢と変わりやせんな」

これは、周作の言葉です。
彼には彼の、「選ばなかった道」がありました。


周作の姉の径子は、好いた夫に早くに死なれ、二人で営んだ時計店は
建物疎開で壊され、折り合いの悪かった婚家の両親に引き取られた
息子とも会えなくなりますが、「ほいでもふしあわせとは違う。
自分で選んだ道じゃけえね」と言います。



自分で選んだ道も、選べなかった道も、
過去と現在を受け入れて、ただ前に進む・・・

この映画が描く、そんな「普通」の人々の強さに、
生きることへの向き合い方に、
私は心を打たれたのかもしれません。


広島に原爆が落とされ、実家の家族とも連絡が取れない状況の中、
急いで広島へ救援に向かおうとする呉の人々を見て、
すずはこうつぶやきました。

 「うちも強うなりたいよ。優しゅう、しぶとうなりたいよ。
  この町の人らみたいに・・・」

強くなりたい。優しく、しぶとくなりたい・・・

私も、そう思います。


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そして、迎えた終戦の日。


自分でも言うように「ぼーっとした」ところのある、おっとり、のんびりした、
穏やかな女性だったすずは、玉音放送で終戦を知り、諦めのような
言葉を口にする周囲の人々に反して、感情を爆発させます。


 「そんなん覚悟の上じゃないんかね?
  最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね?」

 「いまここへまだ五人も居るのに!
  まだ左手も両足も残っとるのに!」

 「うちはこんなん納得できん!」


戦争に勝つこともなく、最後のひとりまで戦って玉砕することもなく、
突然に終わった戦争の日々。

ずっと信じてきたものに裏切られ、そのために戦ってきたもの、
犠牲を耐えていたものが、幻想のように崩れ去って行ったことに対する
怒りとくやしさ、喪失感や虚無感。


一人外へと走り出て、畑に突っ伏して慟哭しながら、

「何も知らず、ぼーっとしたうちのまま 死にたかったなあ・・・」

と思うすずの心の中は、そんな思いでいっぱいだったのでしょう。

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何も知らず、ぼーっとして、笑っていられたら、信じ続けていられたら、
人生はどれだけ楽なことでしょう。

だけど、現実では、誰もがずっと笑ったまま、何も知らないままで、
人生を終えることはできません。


この物語の中で、すずはいろいろな「知りたくなかったこと」に出会い、
「大切なもの」を失っていきます。

大切な人やものを失う悲しみ、信じていたものが崩れていく喪失感と絶望。
それが大きければ大きいほど、心の中に生じる歪み・・・

それでもやがて、それらを受け入れ、自分の中で折り合い、
生きていく強さを取り戻します。



困難な時代を、人生の不幸や悲しみを、どうすれば人は受け入れて、
折り合って、また前を向いて生きていけるのか・・・

戦争が終わり、新しい時代へと向かっていく呉の街を
隣人と一緒に歩きながら、すずはこう言いました。

 「生きとろうが 死んどろうが
  もう会えん人がおって ものがあって
  うちしか持っとらん それの記憶がある
  うちはその記憶の器として
  この世界に在り続けるしかないんですよね」

それは、私が抱いた疑問への、ひとつの答えなのかもしれません。



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原爆で焦土と化した広島の街は、
「みんなが誰かを亡くして みんなが誰かを探している」場所でした。

物語の終盤、そんな場所で、すずと周作は一人の孤児に出会います。


子供に恵まれず、あの日、広島に帰らなかったすずと、
原爆投下後の広島の街を瀕死の重傷を負いながら
娘の手を引いて歩いた右手を失った女性・・・

それはどこか、選んだ「道」と、選ばなかった「道」の
パラレルワールドのような気もしました。

そして、広い世界の中、偶然にその道が重なり合ったところで、
すずと孤児の女の子は、出会ったのかもしれません。




 「周作さん、ありがとう
  この世界の片隅にうちを見つけてくれて」

そう言うすずの言葉は、孤児となった女の子の言葉でもあり、
そして、何かを失いながら、自分が進む道の中で
出会い、お互いの中に「居場所」を見つけ出した人々の
言葉でもあるような気がしました。



映画の最後、広島で出会った女の子を連れて列車に乗り、
呉の街へと帰ったすずと周作の目の前には、
呉を守る九つの山の嶺が広がり、
山腹の家々に灯る明かりが輝きます。


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その光のひとつひとつには人々の暮らしがあり、
居場所があるのでしょう。



片渕須直監督は、この映画を、「『居場所』の物語」と呼んでいました。


 「誰でも何かが足らんくらいで、この世界に居場所は
  そうそう無うなりゃせんよ」

すずが偶然出会った遊郭で働く女性、りんは、そう言いました。



あの時代、呉の山腹にある一軒家で、
すずとその家族は、お互いをそれぞれの「居場所」として、
そこに生きる場所を見つけて、ひたすらに生き抜きました。

その連綿とした命の繋がりが、
今の私たちへと続いているのでしょう。




生きるということは、道を選び、居場所を見つけ、「普通に」生き抜くこと。


誰かが誰かを必要として、 誰かが誰かの居場所になって、

そうして、人は人生の希望を見つけながら、
この世界の片隅で、生きているんだな・・・と、

生きるということは、この上なく素晴らしく、哀しく、複雑で、そして単純で・・・

その美しさと希望に、私は心を動かされた気がするのです。




まぎれもない傑作です。

そう言える、とても良質な物語でした。



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とりとめもない文章を書き綴るうちに、
すっかり長くなってしまいました。

ここまで付き合ってくださった方、
本当にありがとうございます。


最後に、もうひとつだけ、
原作の中のすずさんの独白から、
心に残った言葉を・・・


 「わたしのこの世界で出会ったすべては

  わたしの笑うまなじりに

  涙する鼻の奥に

  寄せる眉間に

  ふり仰ぐ頸(くび)に

  宿っている」




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映画の主題歌は

コトリンゴの『悲しくてやりきれない』




やりきれない悲しさを歌うこの曲ですが、

「この限りない むなしさの 救いはないだろうか」

という歌詞の答えと救いを、どこかに感じさせてくれるような歌声です。

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2016年11月27日 (日)

藤田嗣治

このブログのプロフィールのところにある絵は、
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、
藤田嗣治(ふじた つぐはる)の『カフェにて』です。


エコール・ド・パリを代表する画家のひとりであり、
フランスでもっとも有名な日本人画家、藤田嗣治。

私の大好きな画家の一人です。


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彼が東京に生まれたのは、今からちょうど
130年前の今日、11月27日でした。

今年は生誕130年記念の展覧会が各地で開催されていたので、
その作品を実際にご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。



藤田の誕生日の今日は、彼についてのお話を少しさせて
いただきたいと思います。

ただ、一人の画家の人生について書くとなると、
ブログ一記事のボリュームでは、とても足りないことでしょう。

かなり端折った内容に(それでも、そこそこ長く)なりそうですが、
興味とお時間のある方は、どうぞお付き合いくださいね。



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藤田嗣治は、1886年(明治19年)11月27日、
東京牛込に、4人兄弟の末っ子として生まれました。

陸軍軍医総監を務めた父の嗣章をはじめ、
親族には多数の軍医関係者がいましたが、藤田自身は
軍人を志すよりも、絵を描くことを好む少年でした。



父の理解のもと、1905年に東京美術学校西洋画科に入学。


東京美術学校を卒業し、パリへと渡ったのは
1913年、26歳の時でした。

キュビズムやシュールレアリズムなど、当時の日本では考えられない
ような表現に出会い、その自由さに魅せられた藤田でしたが、
パリの最初の数年間は、食費にも事欠き、絵を燃やして暖をとるような
貧困に耐えながら、自分自身の絵を一心に模索する研鑽の日々でした。

モディリアーニ、スーティンらと親しくなり、
ピカソやアンリ・ルソーと知り合ったのもこの頃のようです。



ところで、もう何年も前、藤田が1917年から1924年まで住んだ
モンパルナスのドランブル通り5番地にあるアパルトマンを
訪ねたことがありました。


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当時の画家仲間たちが集ったカフェの「ラ・ロトンド (La Rotonde)」や
「ル・ドーム (Le Dome)」からも近いその建物は、ちょうど
改修工事中でしたが、通りに面した正面の壁には、

「画家のフジタ(1886-1968)が1917年から1924年までの間
この建物で暮らし、仕事をした」

と書かれたプレートが掲げられていました。



2つの世界大戦にはさまれたこの時代は、第一次世界大戦の解放感と
好景気の高揚感に満ちた「狂乱の時代」(アネ・フォール:Annees Folles)と
呼ばれ、たくさんの異国の画家や詩人、小説家たちがパリを訪れ、
そこで暮らしています。

当時、モンパルナスはパリの知識人や芸術家らの中心地でした。

若き日の藤田は、モディリアーニやスーティン、シャガールやキスリング、
パスキンら、未来の大画家たちと日夜モンパルナスのヴァヴァン交差点近くの
カフェやバーに集い、絵の売れない貧しい生活の中、飲んで騒いで、
芸術についての議論を繰り返しました。



やがて、世に出るきっかけとなった1917年のシェロン画廊での
最初の個展の後、1919年にはサロン・ドートンヌに初入選、
1921年には出品作品3点が大人気を博し、画家・藤田は
一躍時代の寵児となります。


おかっぱ頭に特徴的な丸メガネ、大きな金のイヤリング。
芸術家仲間らとの乱痴気騒ぎのパーティーでは、女装して
着物をまとい、日本の民謡や踊りを披露する・・・

そんな彼は、その名前の綴り(Foujita)から、フランス語で「お調子者」を
意味する「FouFou(フーフー)」と呼ばれ、フランス中の注目を集めましたが、
実はお酒がまったく飲めなかったといわれています。

また、必ず絵を描いてから出かけるよう、自分自身を律していたとも
いわれ、そこからは、画家としての彼の強い意志を感じます。


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 (当時の写真:中央奥左寄りの丸メガネが藤田です)



そんな時代の作品のひとつ、
『タピストリーの裸婦』(1923)

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日本画の技法を油彩に取り入れた、「乳白色の肌」と呼ばれる
独特の質感(後の研究によって、ベビーパウダーが使われていた
ことが判明しました)を持つ彼の絵は画壇の絶賛を浴び、
エコール・ド・パリを代表する画家の一人となりました。



昔、私が学生として滞在していたパリ国際大学都市の
日本館(Maison du Japon)にも、この時代の藤田の絵が2点ありました。


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1階の大サロンの壁にある『欧人日本へ渡来の図』 (左)と
玄関を入ったホール正面の『馬の図』(右)
(写真は日本館のウェブサイトより)


日本館の建設に私財を投じた実業家の薩摩治郎八の依頼により
1929年に制作されたものです。

毎日学校を終えて帰ってくる度、コンセルヴァトワールの留学生などが
時々ピアノを練習している大サロンの絵を横目に眺めながら、
『馬の図』の前を横切ってエレベーターに乗る・・・

これらの絵を、毎日身近で当たり前のように感じていた当時は、
今思えば、とても贅沢な時間だったと思います。




ちょっと話が逸れましたが、この時代を経た藤田は、
1931年にブラジルに向かい、2年間にわたって中南米を旅行します。

各地での個展は大きな賞賛を浴び、ブエノスアイレスの展覧会には
6万人が訪れ、サインのために1万人が列をなしたといわれています。


中南米の旅は彼に新たな色彩感覚を与えました。

1932年に描かれた『町芸人』では、乳白色の肌や繊細な線描は姿を消し、
鮮やかな色彩とエネルギーが溢れています。

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中南米への旅の後、何度かの帰国を経て、
第二次世界大戦が勃発し、ナチスのフランス侵略を機に、
1940年、藤田は、妻とともに再び日本に戻ります。


高い評価を受けていたフランスから祖国に戻った藤田に対する
日本画壇の態度は、当初、冷たいものでした。

そこには、日本独特の保守的で内向きな姿勢や、
藤田のフランスでの成功に対する嫉妬もあったのかもしれません。



第二次大戦中の日本軍部は、記録や国民の戦意高揚のため、
多くの作家や画家たちに従軍記事を書かせたり、戦争記録画
(いわゆる「戦争画」)を描かせたりしていました。

軍の「依頼」というよりも「命令」に近いものだったのでしょうか。
そんな「従軍画家」と呼ばれた画家たちの数は、80人を超えていたそうです。

藤田が最初に依頼を受けたのは、小磯良平らとともに出向いた
1938年の中国での漢口攻略戦の取材で、その後、南方へも派遣され、
数々の戦争画を残しました。



フランスから帰国した祖国の冷たい空気の中、当初は気乗りしなかった
戦争画を精魂込めて描くうち、そこに新たな表現を見出した藤田を、
やがて日本の美術界は認めるようになります。


フランスにあっても、「日本人」としてのアイデンティティと誇りを
常に持ち続けた藤田にとって、陸軍美術協会理事長に就任し、
自身の作品を評価されたことは、やっと祖国に認められたような
気持ちだったのでしょう。



私が彼の戦争画を初めて見たのは、ちょうど10年前、
生誕120年にあたる2006年に開催された「藤田嗣治展」でした。


そのうちのひとつ
『アッツ島玉砕』(1943)

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アリューシャン列島の暗い空の下、雪の山々を背景に
累々と重なる兵士の死体。

後であらためて触れますが、戦後の日本で、戦争を鼓舞したとして
批判を受けることになった戦争画の代表作です。



戦争画の目的の一つは戦意高揚だといいますが、
私がこの作品から感じるのは、戦場の極限状態と
残虐で凄惨な悲しみだけです。


「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」と藤田が言うこの作品は、
実際の取材によるものではなく、彼の想像力が描いた世界です。

多くの戦争画を描いた当時の藤田の心境は、結局のところ
本人以外には本当にはわかりませんが、 例えばこの作品を描いた彼の心は、
戦意高揚のためや、または、その逆の反戦というイデオロギーではなく、
意識的か無意識かは別として、「芸術として純粋に人間の本質を描き出す」
というところに向かっていたのではないか・・・と、私はそんなふうに感じました。

描かれた当時、この絵の前で涙を流し、手を合わせる人が絶えなかったと
いわれていますが、それは、この絵が伝えるものが、単なる戦意高揚ではない
ということなのではないでしょうか。



1945年、第2次世界大戦が終結。

日本は敗戦国となり、陸軍美術協会理事長だった藤田は、
GHQから戦争画の調査と徴集を任されました。

これは、美術的価値のある作品を収集しようとする
GHQの意図だったのでしょうが、戦争画を描いた多くの画家たちは、
戦争に協力した戦犯とされることに怯えていました。


一方、戦後の日本画壇は、手のひらを返したように、
戦争画を描いた画家を糾弾し始めました。

終戦の翌年に内田巌(1948年に日本共産党に入党)を初代書記長として
発足した日本美術協会は、陸軍美術協会理事長であり多くの戦争画を
描いたとして藤田を批判し、その戦争責任を通告しました。


その背景には、ヨーロッパでの成功に対する嫉妬やその才能への妬み、
GHQへ協力した姿勢への反感もあったのでしょう。

多くの画家が保身に走る中、日本美術界における「戦犯」として非難され、
その罪を一人で背負わされた藤田は、戦争協力者のスケープゴートに
されたともいえます。



一度は受け入れられたと思った祖国に裏切られたと感じた藤田は、
大きな衝撃と失望、怒りを抱えながらも、多くを反論することなく、
その責任を一人で背負い、再び日本を離れます。


「絵描きは絵だけを描いてください。
仲間げんかをしないでください。
日本画壇は早く国際水準に到達してください」

1949年3月、日本を発つ前、藤田が残した言葉です。



「私が日本を捨てたのではない。日本が私を捨てたのだ。」

彼は、そんな言葉もまた残しています。




日本を後にした藤田が向かった先は、
パリではなくニューヨークでした。

「戦犯」であるという噂のせいかどうかは定かではありませんが、
フランスへの渡航許可よりも先に、アメリカへの渡航許可が
下りたためでした。

手違いのため許可が遅れた妻の君代夫人は、
その2か月後にニューヨークへ向かっています。




戦争責任を問われ、追われるように日本を離れた藤田が、
祖国を捨てるという決断をして、 パリへと向かう前に
立ち寄ったニューヨーク。

『カフェにて』は、その状況下で描かれた作品です。


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カフェのテーブルに頬杖をつく、藤田独特の乳白色の肌をした
黒いドレスの女性。

テーブルの上には、書きかけの手紙が置かれています。


実はこの作品には微妙な違いのあるいくつかのバージョンが存在していて、
私がここに掲載しているのは、そのうちで一番好きなものです。


パリの日常を思わせるカフェは、フランスという国の文化を
象徴しているのでしょう。

そこに座り、少し憂いのある表情で、頬杖をつく女性。
手元の手紙は書きあぐねているのか、インクが滲んでいます。


この絵の中には、祖国を捨てざるをえなかった藤田の悲しみや、
異邦人としての孤独、フランス、パリへの郷愁、
そして、芸術への尽きない思いが投影されているように
私には感じられます。



翌年、1950年にニューヨークを後にし、パリへと戻った藤田は、
1955年にフランス国籍を取得し、洗礼名のレオナール・フジタ
(Léonard Foujita)を名乗ります。


そして、1968年1月にチューリッヒで没するまで、
二度と日本の地を踏むことはありませんでした。




戦後、藤田が日本を去ってから、日本美術界における彼の存在は、
長く封じられたままでした。

藤田の没後も、君代夫人は、「正しく評価しない以上、忘れて欲しい」と、
作品の日本公開を拒み続けていました。

夫人の協力がようやく得られ、その作品が国内で紹介されて
評価されるようになったのは近年のことです。


生誕120年にあたる2006年には、先に述べた藤田嗣治展が、
東京国立近代美術館を皮切りに、各地で開催されました。




*・゜゜・*:.。..。.:*・*:゜・*:.。. .。.:*・゜゜・**・゜゜・*:.。..。.:*・*:゜・*:.。



「私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。
私は世界に日本人として生きたいと願う。
それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う。」


生前そう語った藤田が生まれてから、
今日でちょうど130年。

130年後の今の日本の状況を、
彼はどんなふうに感じるのでしょうか。

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2016年11月16日 (水)

スーパームーン

昨日(14日)の晩は、68年ぶりに月が地球に最接近するという
スーパームーンでしたが、みなさまの地方では、
大きな月を眺めることはできましたか?


日本各地はあいにくの空模様のところが多かったようで、
観測できたのは一部の地域だったそうですね。

私の住む場所でも、夜空は厚い雲に覆われていて
残念ながら、明るい月の光は見えませんでした。


こんなスーパームーンが次に見られるのは18年後ということで、
今回は残念だったなぁ・・・と思っていたところ、

思いがけず、バンコクに住む友人から
スーパームーンの写真が送られてきました。


1


仕事の帰り道、スマホで撮影したようなので、
あまりいい画質ではないけれど、

本当に大きなお月様!

私の空は雨が降っていたけれど、
彼女の空はこんなに晴れていたんだな・・・

日本とバンコクと、遠く離れているけれど、
同じ空を眺めているんだな・・・

そう思うと、ちょっと楽しく、あったかい気持ちになりました。



今夜ベランダから眺めた空はよく晴れていて、
昨日程ではないでしょうけれど、
明るくて大きな月が輝いていました。


月のきれいな夜、家でのんびりとお酒を飲みながら聴いたのは
テナー・サックスのバトル・セッション、
Bill Perkins と Richie Kamuca の『Tenors Head On』


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軽快な掛け合いが気持ちのいい演奏です。




それではみなさま、おやすみなさい。

いい夢を。



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2016年11月 6日 (日)

Like A Girl

もう2年程前になるでしょうか。

2014年にP&Gが公開した「Like A Girl (女の子らしく)」という
タイトルの動画が印象的で、いつか機会があれば、
シェアさせていただきたいと思っていました。


Image_2


P&Gの女性用衛生用品ブランド「always」のキャンペーン映像なのですが、
同年のフランスの国際広告賞「Epica Awards」のデジタル部門グランプリを
受賞したほか、翌2015年には、アメリカで最も高視聴率と言われる
「スーパーボウル」(プロアメリカンフットボールリーグNFLの優勝決定戦)で
短縮版のCMを流し、評判になりました。



3分余りの動画の冒頭では、

「WHAT DOES IT MEAN TO DO SOMETHING  “LIKE A GIRL”?」
(「女の子らしい」行動とは、一体何だろう?)という字幕の後、

カメラの前に立った数名の男女が、ディレクターの

 「女の子らしく(Like A Girl)走ってみて」
 「女の子らしく(Like A Girl)喧嘩してみて」
 「女の子らしく(Like A Girl)ボールを投げてみて」

という依頼に答えて、それぞれがイメージする動作をします。



その続きは、実際の動画を見ていただければと思いますが、

日本語字幕付きのものがあったので、今日はこちらをご紹介しますね。

  (P&Gの「always」は日本での「ウィスパー(whisper)」ブランドなので、動画中では
   オリジナルでの
「always」の部分が「whisper」になっています)





私にとって、この動画の中で最も印象的だったのは、
赤いドレスを着た小さな女の子でした。

「女の子らしく走ってみて、とお願いしたけれど、それってどんなこと?」
というディレクターの問いに、

「できるだけ早く走ること」と答えた彼女の姿は、
なんて毅然として美しいんだろう・・・と思いました。



この動画が訴えている、
「Like A Girl」という固定観念から女の子を解き放ち、
「女の子らしさ」をポジティブにとらえようとする精神は
大切なことだと私も共感します。


女の子が思春期に自信をなくしてしまう状況を変えたいというコンセプトは、
「always (whisper)」という製品の性質に合致しているとも思います。



ただ、それは何も、「女の子」に限ったことではなく、
「男の子」でも、同じでしょう。


男であること、女であること

母であること、父であること

娘であること、息子であること


性別によるジェンダーバイアスだけでなく、
年齢や職業、社会的な役割、人種や民族、国籍と、
人は多くの「固定観念」の中で生きています。


そして、さらに思うのは、

それらの「固定観念」にとらわれず、
「自分らしくいたい」・・・と人はよく言うけれど、


例えば、もし、人が

男でも女でもなく、

本当に年齢をまったく意識することもなく、

家族を形成する一員でもなく、

何の社会的肩書も持たず、

どこの国にも民族にも属さなかったとしたら・・・


自分が何であるかを明確に自覚できる人間が
どのくらいいるのでしょうか。

そんな中で、自分自身のアイデンティティを保つことが
できるのでしょうか。



男であること、女であること、

父であること、母であること、

年齢を重ねたこと、

そんなさまざまな要因や、それに基づく経験が人格を作ることもあります。


職業一つをとっても、その自覚や使命感、正しい形でのプロとしての誇りが、
心と意志を強くさせ、自身の人間性を高めることがあります。


自分の生まれた国、自分の属する民族を客観的に意識した時、
初めて芽生える感情もあります。



たぶん、私たちが否定したいのは、
凝り固まった概念と偏見の中に
他人を閉じ込めようとすること。

そして、その中に自分自身を無意識のうちにでも、
あてはめてしまおうとすること。



社会に蔓延する「固定観念」に縛られず、
他人の「偏見」に押し潰されず、
定型化された枠にとらわれず、
ステレオタイプにはまらないで
自分自身を確固と持って生きることは、

それらに流されつつ不満を言うよりも、ずっとずっと美しいけれど、
きっと、何倍も難しいことなんだろうな・・・

なんて思ったのでした。

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2016年10月30日 (日)

ワヤン・クリ(Wayang Kulit)

旅が大好きです。


もちろん国内旅行も好きですが、やはり心が弾むのは、
文化も習慣も全く異なった、海外の未知の国々へ出かける時。


これまでも、いくつかの国を訪ねましたが、
とても興味があるけれど、まだ訪れたことのない国もたくさんあります。


その一つが、インドネシアです。

特に、ガムラン音楽や舞踊など、バリの伝統的な文化や芸術に
触れることができるという「ウブド」は、ぜひ一度行ってみたいと
長年熱望している憧れの土地です。


このブログを訪問してくださるみなさんの中には旅行好きな方が
多くいらっしゃるので、インドネシアを旅されたことのある方も
きっといらっしゃることでしょう。

私にとっては、まだ訪れたことのない国ですが、
仕事を通じては、インドネシアの方と接する機会が時々あります。


仕事を通じて・・・と言えば、海外の国をビジネス等で訪問する際、
お土産を持参するかどうか、または、どの程度のものを持っていくかは、
私の経験(そう多くはありませんが・・)を振り返ってみると、
国によって結構差があるように感じます。

そんな中で、インドネシアは、かなり、
「お土産文化」の国のような気がしています。



・・・なんだか、前置き的な話がすっかり長くなってしまいましたが、

今日は、しばらく前に来日したインドネシアの方からいただいた
ちょっと変わった「お土産」をご紹介したいと思います。



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みなさんは「ワヤン・クリ(Wayang Kulit)」をご存知でしょうか?


インドネシアのジャワ島やバリ島で行われる、人形を使った
伝統的な影絵芝居のことで、「ワヤン(Wayang)」は「影」を、
「クリ(Kulit)」は「皮」を意味するそうです。

なぜ「皮」なのかというと、影絵芝居で使われる人形が
牛の皮でできているからだとか。

その演目は、「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」など、
古代インドの叙事詩をベースにアレンジされたもので、
現地ではガムランの音色とともに、夜を徹して上演されると
聞きました。



この影絵芝居に、私は以前からかなり興味を持っていたのですが、
その人形を、ある時「お土産」としていただきました。




1_3


名前の由来どおり、人形は革製で、
持ち手となる棒の長さを入れると70センチくらいです。

ワヤン・クリにはたくさんの登場人物がいて、さまざまな種類の人形が
あるそうですが、上の写真の人形は、くださった方によると
「warrior(戦士)」だとか。



全体に細かい穴がたくさん開いていて、
これが影絵となった時に、繊細な細工模様のシルエットとして浮かびます。


2_2



ワヤン・クリの上演では、石油ランプの前に白いスクリーンが張られ、
その間で、ダランと呼ばれる人形遣いが、たった一人で
数々の人形を操ります。

ダランは人形だけでなく、語りや効果音も担当し、
その後ろでは、複数の演奏者によるガムランの伴奏が行われます。



人形の中心についている長い棒は、
スクリーンの前にある座に突き刺すためのもの。

こうすると、人形遣いが一人でも、複数の人形を
スクリーンに登場させておくことができます。



こちらの人形は、
たぶん「スマル(Semar)」というキャラクター。


3


ワヤン・クリの主役となる人形は概して細身なものが多いそうですが、
このスマルは、不気味な表情に不格好なスタイルと、
ちょっとグロテスクです。


その異様な姿形に、いただいた時にはちょっと驚きましたが、
スマルは「マハーバーラタ」に登場する勇者アルジュノの従者で
道化師で、守護者でもあるとのこと。


こんな外見ながらも、なかなかの役者らしく、
例えば、夜通し上演されるワヤンで、深夜に観客たちが
眠気を催してきた頃、場面転回でスマルが登場し、
滑稽な問答や痛烈な風刺で観客の眠気をさましたり、
笑わせたりする重要な役割を担っています。


また、スマルは、実は宇宙を支配する最高神ブトロ・グルの兄で、
自身も偉大な力を持つ神であって、人間を守護するために
地上に降りた姿だとも言われているそうです。



そう聞くと、少し違って見えてくる・・・かな?



4_2




ところで、影絵芝居なのに、どうして人形には
鮮やかな彩色がされているのか?
・・・と思った方もいらっしゃるかもしれません。



普通、影絵芝居を見る場合、観客はスクリーンを挟んで、
人形とは反対側から鑑賞することになります。


けれど、ワヤン・クリの場合は、石油ランプの灯りを背景に
人形のシルエットが映るスクリーンの表側と、ダランが
人形を操る裏側の両方から見ることができるのです。


そして、影の映るスクリーンの表側は「現実の世界」や「現世」を、
美しく彩色された人形をダランが操る裏側が「異世界」や「あの世」を
表すと言われています。



影絵の幻想的な様子は、一見「異世界」を思い起こさせますが、
インドネシアの人々の感覚では、「あの世」の方が美しく色鮮やかな
世界で、その影が「現世」なのでしょうか。


表側からか裏側からか、それは観客の好みで自由なようですが、
聞くところによると、インドネシアではダラン側から観るのが
人気だとかいうことで、こちらも興味深いです。




さて、最後に、「結局、実際のワヤン・クリってどんなもの?」
・・・という方のために、YouTubeで見つけた動画をご紹介します。


スクリーンの表と裏側の様子がわかって、実際のワヤン・クリを
見たことがない私も、雰囲気が想像できました。



そして、もう一つ。

こちらはジャカルタのMuseum Wayang(ワヤン博物館)がアップしている動画です。



2時間以上あるので、絶対最後まで見られない気がしますが
(もちろん、私も見てません^^; )、夜通し行われるワヤンの演目は、
あらすじがあるだけで、物語もゆったりしているため、
途中で1時間くらい眠ってしまっても大丈夫なんだとか?


ガムランの音色の中で、うつらうつらと居眠りしながら、
ふと眼を覚ましては、また影絵の世界へ入っていく・・・

そんなゆったりした幻想的な時間が流れる夜には憧れますね。



なので、動画を見ている途中に眠り込んでしまっても、
きっと大丈夫ですよ(笑)

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2016年10月22日 (土)

ケイトウの花と風邪の気配

夏から秋にかけて花を咲かせる「鶏頭(ケイトウ)」

雄鶏のトサカのように見える花の形から
その名前がついたと言われています。


実は私、ケイトウの花は苦手です。

よく花屋さんで見かけるキャンドルタイプの円錐形のものはまだいいとして、
まさにニワトリのトサカそのもののような濃い赤のトサカケイトウは、
ちょっと気持ち悪い気がして好きになれませんでした。


・・・と、思っていたら、先日ピンク色のケイトウの花を
おすそ分けでいただきました。



0

 

優しい色合いのピンクのケイトウ

小さなガラスの器に淡い色の草花と飾ると、
可愛らしい雰囲気になりました。

これなら、ちょっと好きになれそうです^^




ところで、ここしばらく、急に肌寒くなってきたな、と思ったら、
日中に少し暑く感じる日もあったりで、気温の変化が大きいですね。


数日前から夫が「喉が痛い」と言っていたのですが、
それが私にもうつったのか、一昨日くらいから、
熱もないし、仕事を休むほどではないけれど、
なんとなく、だるくてしんどい・・・



そんな感じで週末を迎えて、
お天気のパッとしない土曜日。

“風邪の気配”のうちにゆっくりと体を休めて、
本格的な風邪にならないように注意して、
また週明けからの忙しい日々にそなえよう・・・

と、今日は思い切って外出の予定をキャンセルして、
家で静かに過ごすことにしました。



風邪っぽいな・・・と感じた時、私はいつも
いくつかしていることがあるのですが、

まずは、水分とビタミンCをたっぷりとって、
濡れマスクをして、とにかく、ぐっすり寝る!


ビタミンCはサプリメントでも取りますが、それに加えて、
今朝は、小松菜とリンゴ、キウイ、バナナ、生姜に
マヌカハニーを少し加えたグリーンスムージーを飲みました。


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生姜は体を温めてくれるし、マヌカハニーの高い殺菌作用は
喉の痛みにも効くようです。

小松菜やほうれん草などの葉物野菜を使ったグリーンスムージーは人気ですが、
硝酸態窒素の危険があるとも言われているので、私は念のため、
いつもお酢を入れたお湯でさっと茹でてから使っています。


ミキサーに入れて数十秒で完成♪

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フルーツ多めのスムージーは、やっぱり飲みやすくて
おいしいですね。




そして、午後には、PCに向かいながら、
エキナセアのハーブティー。


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風邪の予防にいいと言われるエキナセアですが、
我が家ではサプリメントの他に、「生活の木」のエキナセアの
ハーブティーを常備薬のように大袋で買い置きしていて、
ちょっと風邪気味かな?・・・と思った時には必ず飲んでいます。

職場にも持って行っていますが、オレンジやシナモン、ジンジャーなどが
ミックスされたスパイシーで甘い香りで、飲むとポカポカ体が温まります。


そして、さらに、もうひと押し・・・という時には、ツムラの「葛根湯」

「葛根湯」の宣伝をするわけではありませんが、
体質なのかどうか、私にはこれがとても合うようです。



こんな感じの対策で、熱が出たり寝込んだりするような
本格的な風邪はめったに引かないのですが、
今回も軽い喉の痛み程度で終わりますように・・・



寒暖差のある季節の変わり目は風邪を引きやすいものですね。

みなさまもどうぞご自愛ください。

そして、「これは風邪対策に効く!」というアイディアがあれば
ぜひ教えてくださいね♪



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2016年10月16日 (日)

Black dot

少し前、海外の友人から、SNSを使って
一つの動画が送られてきました。

今は遠く離れている彼女からの
「あなたとシェアしたいと思って」・・・というメッセ―ジとともに。



シンプルなイラストに英語の字幕のついた2分足らずの動画ですが、
今日はこのお話を紹介させていただきたいと思います。
  (日本語訳は、またまた「自己流」ですが・・・)



*・゜゜・*:.。..。.:*・*:゜・*:.。. .。.:*・゜゜・**・゜゜・*:.。..。.:*・*:゜・*:.。



ある日、教授が学生たちに、抜き打ちテストをすると告げました。



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彼は、いつもどおり、問題用紙を裏向きにして配りました。

全員に配り終えると、表を向けて始めるよう学生たちに言いました。


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みんなが驚いたことに、そこには問題は書かれておらず、
真ん中にひとつの黒い点があるだけでした。


「そこに見えているものを君たちに書いてもらいたい」
そう、教授は言いました。


学生たちは、戸惑いつつも、その不可解な課題にとりかかりました。



3



授業の終わりに、教授は、学生たち全員の前で
それぞれの答えを声に出して読みました。

すべての答えは例外なく、紙の中央にある点の位置を説明しようとするなど、
黒い点について記述したものでした。



すべてが読み終えられ、静かになった教室で、
教授は話し始めました。


4



「私は、これで君たちを採点するつもりはない。
ただ、君たちにちょっと考えるきっかけを与えたかったんだ。

誰も、この紙の白い部分について書いた者はいなかった。
みんな、黒い点に注目していた。」



5



「我々の人生だって同じことだ。
いつだって、黒い点に目を向ける。

我々の人生は、愛と思いやりとともに、神様から与えられた贈り物だ。
いつも祝福するべき理由がある。

けれど、我々は暗い部分にばかり目を向けようとする。
健康に関する悩みや、お金がないこと、ややこしい家族関係、
友人に失望すること、など・・・」


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教授は続けました。

「我々が人生の中で持っているすべてのものと比べると、
暗い点はとても小さい。
けれど、それらは私たちの心を汚していく。」


「君らの目を、人生の黒い点からそらしてごらん。

人生が与えてくれる恩恵のひとつひとつと、
人生の一瞬一瞬を楽しみなさい。」



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*・゜゜・*:.。..。.:*・*:゜・*:.。. .。.:*・゜゜・**・゜゜・*:.。..。.:*・*:゜・*:.。



最後に、同じ動画をYouTubeで見つけたので、
貼り付けておきますね。

 




それではみなさま、明日からの一週間も
お元気でお過ごしください♪

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2016年9月22日 (木)

Fight Song

今日は秋分の日。

私の地方では、台風一過・・・とはならず、小雨の降る曇り空でした。


温帯低気圧となった台風16号は各地にその爪痕を残しましたが、
みなさまのお住まいの地域は、大きな被害はなかったでしょうか。




さて・・・

今日の記事のタイトル「Fight Song」は、アメリカのシンガーソングライター、
Rachel Platten(レイチェル・プラッテン)の曲。


1


1981年にボストンで生まれたレイチェルは、大学卒業後
ミュージシャンを志してニューヨークへ行き、2003年にデビューしました。

その後、地道な活動を続けますが、なかなかヒットには恵まれず、
長い下積み生活が続きます。



30歳を超えて、夢をあきらめそうになった時、

「もう1曲だけ書いて、あきらめるか、もっと頑張るか、決めよう」
・・・と、自分を奮い立たせて作った曲が、この「Fight Song」でした。



彼女自身の気持ちを率直に歌ったこの曲は、
2015年、全英シングル・チャート1位、全米シングル・チャート6位に輝き、
世界的な大ヒットとなりました。




私自身も、この曲と歌詞に、ずいぶん励まされました。


人はみんな違う人生を生きているけれど、
その歌詞は、それぞれの境遇や状況に応じて
力を与えてくれる言葉となるのでしょう。



今日は、私の拙い訳ですが、歌詞を日本語にしてみました。

この曲を、ここを訪れてくださる方々と共有できれば嬉しいです。






(*1)大海に浮かぶ 小さな舟が
   大きな波を送りながら 動くみたいに
   たったひとつの言葉でも 
   心を開かせることができるように
   私は1本のマッチしか持っていないかもしれないけど
   爆発を起こすことはできるわ

(*2)私が言わなかったことすべて
   頭の中の解体工事用の鉄球
   それを今夜は大声で叫ぶわ
   今度は私の声が聞こえる?

(*3)これは私の闘いの歌
   自分の人生を取り戻す歌
   私は大丈夫だって証明するための歌
   力が湧いてくる
   たった今から 私は強くなる
   私の闘いの歌を奏でる
   誰も信じなくても全然かまわないわ
   だって 私の中にはまだ たくさんの力が残っているから

   友達をなくして 眠れなくて
   みんなが私のことを心配してる
   深みにはまって
   一人で抱え込んで
   もう2年にもなるわ
   故郷が恋しい
   だけど 私の中には燃える炎がある
   だから まだ信じてる
   私は まだ信じてる

 (*2)
refrain
 (*3)refrain
 (*1)
refrain
 (*3)refrain


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2016年9月 3日 (土)

青い車

さまざまな出来事が起こって、時間が流れて、ふと気付くと、

もう夏の終わり、秋の始まりになっていました。


季節の巡りは早いものですね。

ここを訪れてくださる皆様は、どんな夏を過ごされたことでしょうか。




水族館の青い水母

1_2



海をそのまま連れてきたようです。





「青い」・・・といえば、

突然その歌詞が浮かんできて、
本当に久しぶりに聴いた、いえ、聴きたくなった曲

スピッツの「青い車」


もう20年以上も前、1994年リリースの曲です。

あまり日本のグループの音楽は聴かなかった私ですが、
この曲を含め、彼らの音楽には好きな曲がいくつかありました。



当時の私は正真正銘に、もう本当にとても若くて、

この歌を聴く時は、例えば、車の窓をいっぱいに開けて、
大好きな彼の隣で風を感じながら、まっすぐな道を
ひたすら走っている時のような、

『生きていくのには大変なことがいっぱいある』と頭では
わかっていても、その実、深刻な疑問なんて何も持たないで、
若さと、その先に続く見えない程長い時間と愛情だけで
胸をいっぱいにしているような、

今思えば、眩しいような無謀なような、単純な、

そんな気持ちを抱いていました。




抽象的な歌詞は、「心中」を示唆したものだ
・・・なんて解釈する人がいることは
ずいぶん後になって知ったのですが、

私はそうは思いません。


あの頃からずいぶん長い時間が経って、
いろいろなことが変わって、

今も悩んだり、苦しんだり、行き詰ったり、迷ったりして、

『生きていくのには大変なことがいっぱいある』とも
それなりにわかってきたかもしれません。


改めてこの曲を聴いてみると、
歌詞に込められたひとつひとつの意味がより際立って、
言葉が深い広がりを持って、時に苦しく、心に落ちていきました。


それでもやっぱり、この世界の根底に流れる
ポジティブな空気を感じるし、
言葉のひとつひとつに自分の心を反映させると、

「永遠に続くような掟に飽きたら、シャツを着替えて」、
「輪廻の果てへ飛び降りて」、大好きな人と、
風を切ってどこまでも車を走らせていこう
というような気持ちは、変わらないな・・・なんて
改めて思ったりしたわけです。


  「君の青い車で海へ行こう
   おいてきた何かを見に行こう
   もう何も恐れないよ
   そして輪廻の果てへ飛び下りよう
   終わりなき夢に落ちて行こう
   今 変わっていくよ」

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