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2016年7月 9日 (土)

SOL Y SOMBRA ソル・イ・ソンブラ

もうずいぶん昔、スペインのバルセロナかマドリッドだったか
忘れてしまったけれど、一度だけ、闘牛を見たことがありました。

スペインでの闘牛のシーズンは、3月半ばのバレンシアの火祭りから
10月のサラゴサのピラール祭までの春から秋にかけてだそう。

特に、真夏の強い日差しの下で繰り広げられる雄牛と闘牛士の
命懸けの舞台と場内の熱狂は、古典的なスペインのイメージでもありました。



1


ピカソやゴヤが愛し、描いた闘牛は、
〝ARTE(芸術)〟であるとも言われます。

生死をかけた芸術的な闘牛士の技や表現と、
血を流し〝名誉ある死〟を迎える雄牛。

そんな闘牛に、ガルシア・ロルカやヘミングウェイ、ジャン・コクトーなど
多くの作家や詩人たちもまた、魅せられました。


2

        ゴヤ 「ラ・タウロマキア(闘牛技)」


ただ、「生と死をかけて・・・」といっても、最後には雄牛は必ず倒され、
殺された牛の身体は、飾られた馬たちによって場外へと引かれて行きます。
(その後、食肉に加工されます)

たとえ雄牛が闘牛士を殺したとしても、最終的に牛は殺される運命にあり、
そういう意味では、闘牛とは『牛を死に至らしめる過程を見せる見世物』
とも言えるのかもしれません。


3

             マネ 「闘牛」 



近年は、動物愛護団体からの批判が強まり、スペイン国営放送は
テレビでの実況中継を中止しました。
カタルーニャ州では、2012年から州内での闘牛が禁止されています。

〝残酷〟な方法で牛を殺し、闘牛士自身の生命にも危険を及ぼす闘牛を
動物愛護の観点から批判する感覚は、私たち日本人にも理解しやすい
ように思えます。

一方、擁護派は、「闘牛はスペインの歴史ある象徴的な文化であり
芸術であって、それを禁止することは文化を壊す行為だ」として
反対派を批判しているそうで、「闘牛の禁止は自由の制限を意味する」
とも主張しているようです。

「闘牛が嫌いなら、見なければいい」という排他的すぎる意見は別として、
「家畜をひどい環境で飼育して食用にするのはいいのか」という問いには
単純に答えることが難しいようにも感じます。

擁護派の人々は、「家畜は何の名誉もない死を迎えるが、
闘牛用の牛たちは名誉ある死を迎えている」と考えているとも聞きました。



そして、ふと思いました。

名誉ってなんだろうと。
闘牛で殺された牛たちは、その〝名誉〟を感じているのでしょうか。

また、食べ物を口にする時、よく私たちは、
「『いただきます』は、『命をいただきます』ということだから、
感謝して食べないといけない」・・・などと言うけれど、
もし私が動物だったら、「感謝なんかしてくれなくてもいいから、
食べないでくれ」と思うに違いないと。

けれど、ベジタリアンでもビーガンでもない私は、
日々、動物の命を〝楽しんで〟食べています。

結局は、名誉だとか、感謝だとかは、
人間の自己満足に過ぎないのでしょうか。




・・・・ちょっと、話が逸れました。


もちろん私にも、闘牛は単なる〝牛殺し〟ではなく、
一種の伝統的な様式美であって、スペイン人の美学や
深い精神性が秘められたものであろうことは想像できます。

生と死を扱う儀式的な行為と緊迫感の中から生まれる
芸術的な何かもきっとあるのでしょう。


ただ、私自身、実際に目の前で闘牛を見た時の率直な感想は、
想像していたような華麗で情熱的な舞台というよりも、
人間が牛を無残に痛めつけ、闘争心を無理に煽っているようで、
とても痛々しく、楽しむことも気持ちが乗ることもできませんでした。

たった一度の経験で断言することは難しいかもしれませんが、
少なくともその時、私には闘牛の「本質」は理解できなかったのでしょう。

海外での生活を送り、時にはそちらの方が快適に感じることが
あったとしても、やはり私は日本という国に生まれ育った日本人であって、
本当の意味でのスペイン人(の一部かもしれませんが)のメンタリティは
理解できないんだ・・・と、その時、強くそう感じました。


とはいえ、数年前の調査では、スペイン国民の半数以上が
「闘牛に無関心」もしくは「好きではない」と答えているそうで、
国内での闘牛人気は衰退しているようです。
その一方、52%の人が闘牛がスペインにあり続けることを望んでいる
とのことで、ここに、複雑な感情をくみ取れるような気がします。


また、カタルーニャ州での闘牛の禁止は、動物愛護の観点のみからではなく、
独自の言語と文化を持ち、スペインからの独立を願う同州が、
そのアイデンティティーを強調するため・・・という見方もあるようです。



「闘牛は命を残酷に奪うもの」という反対派と、
「独自の歴史や文化を守り尊重すべき」という擁護派、
はたしてどちらの意見が正しいのか、何が正しくて何が間違っているのか、
実は、私にはよくわかりません。

そしてそれは、立場や時代によって変わってくるものなのかもしれません。



私自身には残酷に感じられ、精神的に受け入れにくかった闘牛ですが、
ただひとつ、強く興味を惹かれたことがありました。


それは、闘牛が始まる時間。

闘牛の開始時刻は季節によって違い、日没のおよそ2時間前、
闘技場が、日向(SOL:ソル)と日陰(SOMABRA:ソンブラ)に
ちょうど二分される時間に始められます。

強い太陽の光が、円形の闘牛場を日向と日陰の二つに分ける時、
始められる生と死の舞台。

それは、あたかも、生と死、光と影、豊かさと貧しさ、成功と挫折、
希望と絶望など、相反するものの象徴のように感じられます。

ゲーテの言葉のとおり、「光が強ければ影もまた濃い」のでしょう。



スペインの作家、ホセ・ベルガミンは
「光(ソル)と影(ソンブラ)の間、
闘牛士(トレロ)と雄牛(トロ)の間には
名前のない神がいる」・・・と記しました。



神とはなんだろう。

相反するものの間には何があるのだろう。

そう思う出来事が世界のあちこちで起こっています。


人間の、世界の、人生の
光(ソル)と影(ソンブラ)の間には、何があるのでしょうか。
 

4

 

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日々のあれこれ」カテゴリの記事

コメント

現在の養鶏や養豚などの畜産は、生き物を生き物としてみていないと私には思えます。また、死んだ牛や羊の骨や脳など人間が食べないものを、細かく砕いて草食動物の羊や牛に食べさせていることも、なんだか人間は生産性という人間だけに有効な論理で自然の摂理を無茶苦茶しているような気がします。狂牛病もそういう流れで考えています。世界中で起こっているテロや大量殺人事件は、人間が自然の一部だということを忘れたために、人間の感情が全世界的に狂ってきたようなSF小説のような妄想をいだくようになってきて、こりゃいかんなあと思っています。
「人間よ自然に帰れ」なんて陳腐なことは考えませんが、今の人間の生き方はやっぱり生き物としておかしいと思うようになりました。

投稿: オジンガーZeit | 2016年7月 9日 (土) 18時58分

私がスペインで闘牛を見たのは、もう20年も前のことでしょうか。本場のアンダルシアだったせいもあって、観客がマタドールの一挙手一投足に熱狂的な歓声を上げていたことだけが印象に残っています。
 その時は、やっぱり農耕民族と肉食民族の違いを強く感じました。特に、闘牛の終了後おなじ闘牛場の片隅で、さっき戦ったばかりの牛が早くも解体されているのが見えた時。

 ちなみに闘牛の肉は一般の肉より安価で市場に出されるのだそうです。
 また、料金が日蔭席のほうが日向席より高かった記憶があります。

投稿: gloriosa | 2016年7月 9日 (土) 21時12分

hananoさん、こんばんは(^^♪

スペインといえば「闘牛」と「フラメンコ」
難しいことは分かりませんけど
その国の文化を継承していくことは大事だと思います。
時代の変化でその考え方も変わることは理解できますが、
それぞれの歴史があって今に通じているのですものね^^

「光と影」という概念、それも立場、見方によって
難しいものですねconfident

そうそう、hananoさんのフラメンコnotes
一度拝見したいです、なかなかイメージできなくてwink

投稿: はなのいろ | 2016年7月 9日 (土) 21時37分

hananoさん、こんばんは。

私も30年近く前に1回だけ闘牛を見ました。残念ながら私にはその芸術性を感じることは出来ませんでした。

私は動物が好きですが、美味しく動物の肉を食しています。有難いと思って食べています。 生まれてから食するために飼育しているのであればいいが野生動物は駄目などとある偏狭な動物愛好家の主張は受け入れることが出来ません。

飼育しようが野生だろうが食するために命を奪っているのですから、同等だと思うのです。

スペインの文化として闘牛があるのなら、彼らの文化として認めなければならないと思っています。

とても大事なのは、可能なだけ痛みがないように敬意を持って殺さなければいけませんし、それを無駄にしてはいけないと考えています。

ある番組で、アフリカでライオンが沢山飼育されて売買されている問題を取り上げていました。動物園やサーカスの為ではありません。米国などから来た富豪な人のハンティングの目当てで野に放たれいるのです。

殺すことを楽しむ人々に嫌悪感を感じて気分が悪くなりました。

光と影、生と死、その境界を考えることで文化や宗教が生まれたのかも知れません。しかしながら死を楽しむような人間にはなりたくないものです。

投稿: omoromachi | 2016年7月10日 (日) 01時38分

オジンガーZeitさんnote
ブロイラーの飼育環境や牛への成長ホルモン剤の投与など、
いろいろ問題にされていることは多いですね。
生き物は生き物を食べなければ生きていけないけれど、
オジンガーZeitさんのおっしゃるとおり、それが自然に反した
いびつな形になっている場合があると私も感じます。
数十年前まではSFのようだと思っていた世界が実現していくと、
人間にとって進歩や発展だけではないものも生じてくるのでしょうか。
私は、「すべて完全オーガニックでないと!」というように
神経質なまでにこだわる気はまったくありませんが、
〝ただただ自然に、ありのままに〟という姿勢で暮らすことが
いかに難しいか痛感します。


gloriosaさんnote
私も確か20年ほど前でした。
gloriosaさんは闘牛を本場でご覧になられたのですね。
さぞかし場内の熱狂もすごかったことでしょう。
ヨーロッパなどに滞在すると、確かに、農耕民族と肉食・狩猟民族の
違いを感じることが多々ありますよね。
市場や肉屋の店先を覗いただけでも実感する時がありました。
一方、例えば豚の首には抵抗ない人々が、魚の活造りは
受け付けないとか、まさに食文化の違いでしょうか。
目の前で動物を屠って食すという経験から遠ざかった私たちには、
死と食の生々しい繋がりには抵抗を感じてしまいます。
これも、本来ならいびつな状態なのかもしれませんが。
・・・と、なんだか取りとめなくなってしまいましたが、
闘牛の肉は一般の肉より安価なのですね。知りませんでした。
それと、確かにソルよりソンブラ席の方が高かったですよね。
お買い得(?)はやがて日陰になるソル・イ・ソンブラ席だったような・・・


はなのいろさんnote
こんにちは~^^
その国の文化を継承していくことは大事、それぞれの歴史が
あって今に通じている・・・というはなのいろさんの言葉、
本当にそのとおりだと感じます。
以前はなのいろさんが和歌山県太地町のイルカ漁について
お話しされていた記憶がありますが、私も共感しました。
固有の伝統や文化を一方的に否定したり、それを理解しようせず
価値観を強要することには、強い抵抗を感じてしまいます。
そうそう、フラメンコですが、仕事等の事情から
もう5年くらい離れてしまっています。
以前は、お金を払って来てくださる方の前で、何とか前座レベルでは
踊れるくらいになっていたのですが、まったく踊っていない今は
きっと振り出しに戻っていて、お見せできるような踊りじゃない気がしますcoldsweats01


omoromachiさんnote
こんにちは^^
omoromachiさんは30年以上も前にご覧になられたのですね。
その時にお持ちになった感覚は、きっと私も同じようなものだと思います。
芸術性や固有の精神性などは知識としてわかっていても、
どうしても気持ちが受け入れられませんでした。
ペットは可愛がる、食べてもおいしくない動物は食べない、
おいしいものは飼育して命を奪う・・・勝手なようですが
それが人間だとも感じます。矛盾はあるものだとも。
けれど、ライオンのハンティングのお話は本当にひどいですね。
タイだったか、過酷な労働を強いるためにゾウに
覚醒剤を打ってまで働かせているという話も聞いたことがあります。
文化や宗教(と勘違いされたもの)が人を殺すことに結びつく状況は
今も頻繁に起こっていて、悲痛な思いを抱くばかりです。

投稿: hanano | 2016年7月10日 (日) 10時47分

hananoさん


なかなか、折り合いをつけるのがむつかしい時代になりましたね。
すごい時代に生きているなと感じることが多々あります。
かつては問題にもならなかったことが今は大きな懸案になっていたり。

英国の国民投票も、蓋を開けてみたら「やっちまった感」満載などと言われているようですが、半分近くの人はEU離脱を指示したということです。
国民投票の危うい一面を目の当たりにして、我々も参院選挙に教訓を活かしたいものです。


闘牛の歴史には疎いものですので何も申し上げられません。

お話を伺っていて、ふと思い出した言葉があります。
有島武郎の印象深い言葉ですので、何かにつけて思い浮かぶ言葉です。


「事業は生産し、芸術は消費する。この意味において神は最大の事業家で、悪魔は最大の芸術家だ。」


生存するために、食べることで精一杯の時代はもうごめんですが、同時に懐かしくも感じます。

好き嫌いにかかわらず、闘牛には惹かれるものがあります。
残念ながら、私は画家ですので悪魔の側でしょう。


銀瀧

投稿: 銀瀧 | 2016年7月10日 (日) 16時16分

こんにちは。
答えがあるのかも分からない難しい問答ですね。
技術と流通の進んだこの国では、そうではないかもしれませんが、ほとんどの国と地域では地産地消が原則です。
そして狩りは危険だし、名誉ある仕事だと思うんです。
それが何時しか闘牛みたいな形になったのかなと。
きっと手段よりも歴史の議論が必要なんでしょうね。
家畜を食すのは生きるのに必要だからと理解しています。
娘の保育園は、自分達で家畜を育て、最後はいただきます。
それがどういう事なのかは大人以上に感じているのだと思います。
そういう体験や実態が理解せずに議論するのは危険ですね。

投稿: 松G | 2016年7月10日 (日) 22時46分

銀瀧さんnote
そうですよね、歴史的な長い目で見れば、今はひとつの大きな
転換期になる時代なんじゃないかな・・なんて、私も最近思います。
英国の国民投票も、まさに「やっちまった感」ですね!
一見とても民主主義的に思える国民投票の危険さを改めて感じました。
有島武郎の言葉、とても印象深いですね。
そう考えると、私は絵や芸術の才能はありませんが、
どちらかというと悪魔よりな人間のような気がします。実は。
闘牛には、芸術性の他に、たぶん死と密接なエロティシズムもありますね。
バタイユの「眼球譚」を思い出します。
実際に見た時の感想とは違いますが、惹かれるものが
あるという気持ちはとてもわかります。

 

松Gさんnote
こんばんは。
ようこそお越しくださいました。
そうなんですよね、世の中には答えが見つけられないような
難しい問いも多いものですね。
発達し、進歩すればするほど、何かがいびつになっていくというのは
どこか避けられない一面もあるのかもしれません。
偶然今日、スペインで闘牛士が牛に突かれて死亡したという
記事を目にしました。
折しもこの記事を書いた一昨日の出来事で、
闘牛中の死亡は約30年ぶりとのことでした。
この闘牛士はきっと「名誉」の死となるのでしょう。
改めていろいろ考えさせられました。
娘さんの保育園では貴重な体験の機会を子供たちに
与えていらっしゃるのですね。
本当に、体験や理解抜きに議論することは危険なことだと思います。

投稿: hanano | 2016年7月11日 (月) 00時55分

闘牛を主題にした絵画が多いですね。
日本人画家でも結構描いています。
それほど闘牛は芸術家の魂を揺さぶる魅力があるのでしょう。ピカソは自分自身を牡牛になぞらえていますね。
牛という動物を神格化し芸術まで高めるというのが画家たちの使命かのようです。

闘牛と言えば、昔〔地と砂〕という映画がありました。
タイロン・パワーという人気俳優が闘牛士を演じたのですが、たいそう魅力的でしたね。
私が闘牛について知っていることは絵と映画だけ(^_^;)
他の国であれ長いこと続いた文化が下火になったことは寂しいですが、残酷性を目の当たりにすれば思いは複雑でしょうね。。。

投稿: おキヨ | 2016年7月11日 (月) 13時55分

おキヨさんnote
おっしゃるように、闘牛の絵を描いた画家は本当に多いようですね。
また、文学や思想の中に登場する機会も多いように感じます。
実際に目にした時には、残酷で痛ましく感じましたが、
やはり、闘牛には芸術家たちを惹きつける何かがあるのでしょうか。
「血と砂」というタイトルも、タイロン・パワーという俳優の名前も
初めて聞きましたが、1941年のアメリカ映画なのですね。
ちょっとネットで調べてみましたが、見てみたくなりました^^


投稿: hanano | 2016年7月11日 (月) 19時30分

こんばんは、光と影が半分こって、綱渡りみたいですね。

闘牛のことは、テレビのバラエティ番組で見たのが記憶に新しい、、
(イッテQとかcoldsweats01
歴史は全然理解していないのですけど、

最初にスペインの人たちの、人間側の精神性を公に示す都合があって、
それで牛さんが付き合わされてきたような気がしました。
想像ですsweat01

牛ってのんびり温厚で優しいイメージなのですけど、、
(占星術でも安定、温厚、節約って言いますし)
そんな牛さんが、戦いで荒々しくなるっていうのも、
また半分この、名前のない神様のいる時の世界の中だけなのかなーなんて。

不思議な世界ですね。

投稿: ここは | 2016年7月13日 (水) 19時24分

ここはさんnote
こんばんは。
生と死の舞台となるような円形の闘牛場を
太陽が光と影に二分する・・・という感覚に
なぜかとても心を惹かれました。
「綱渡り」というここはさんの表現も、とてもユニークですね^^
確かに、牛にとっては、人間のいう「様式美」とか「精神性」だとか
「歴史と伝統」だなんて知ったこっちゃないし、
ただただ迷惑な話かもしれませんねcoldsweats01
ホセ・ベルガミンの言葉、とても美しいと思います。
「名前のない神」っていったい誰なんでしょう・・・?

投稿: hanano | 2016年7月14日 (木) 00時28分

僕も10年近く前にマドリッドで観ました。
個人的には、残酷だと思いながらも楽しめましたが、なんとなく廃れゆく文化っていう雰囲気は感じました。
どちらの立場も正義なんでしょうね。
人類が発展したからこその議論なんだと前向きに捉えたいですね。

投稿: junistoosexy | 2016年7月19日 (火) 18時59分

junistoosexyさんnote
こんにちは^^
コメントのお返事が遅くなってしまってごめんなさい。
junistoosexyさんも闘牛をご覧になったんですね。
確かにスペイン国内でも関心のない人が増えているというし、
伝統的であっても廃れつつある文化なのかもしれませんね。
世の中、どっちかが全面的に正しい・・なんてことは、
実はあんまりないんでしょうね。
もっと残酷なことが議論すらされなかった時代は、
世界の歴史や人々の生活の中にもたくさんあるし、
そういう意味でも、人類の心が発展してきたからこそだと
信じたいです。

投稿: hanano | 2016年7月23日 (土) 09時32分

お久しぶりです。幸雲です。
古い記事へのコメントですみません。

私はスペインの闘牛を実際には見たことがありません。でも、闘牛で殺された牛がちゃんと食肉として人に食べられているというのを聞いて少し安心しました。

確かに残酷かもしれないけれど、トラックに押し込められて、一方通行の通路に追い立てられて、最後にはハンマーガンで眉間を打たれて命を絶たれる牛と、闘牛で殺される牛のどちらが残酷でないかという程度の違いだと思います。

無抵抗に殺されるより場合によっては人間に抵抗を許された闘牛の方がいいのかもしれません。ただ、見世物としての屠殺か消費者の目に触れられないようにして隠して命を奪うのか。
結局は命を奪うのだから同じなのです。でも、最後に抵抗することを許された牛の方が幸せなような気もします。私は、と畜場の器具の見本市でハンマーガンで屠殺される牛が通路を追い立てられているビデオを見たことがあります。その牛の不安を通り越し悲愴な顔が今でも忘れられません。

牧場の牛を見せて、「可愛いね」で済ませてはいけないと思うのです。牧場では天寿を全うする牛はいないのです。乳牛でさえ、子供が産めなくなったら屠殺されるし、オスが生まれると大きくなると直ぐに食肉になるのです。

以前は、可愛がって世話をした鶏を殺して食べるという経験を生活の中で当り前のこととして経験したけれど、今は分断されているのが原因なのではないでしょうか。

「牛を殺す=食べること」から「かわいい牛を殺す=かわいそう」への変化なのかもしれません。

投稿: 幸雲 | 2016年9月19日 (月) 21時02分

幸雲さんnote
こんばんは、お久しぶりです^^
コメントをどうもありがとうございました。
闘牛の牛と屠殺場の牛、どちらが残酷なのか、
考えを巡らせてみると、確かに複雑な思いがしますね。
動物愛護と言い、ペットを可愛がる一方で、
家畜を飼育し、殺して食べる。
そんな矛盾にも似た行動をとるのが人間なのでしょう。
その死を直接目にしないものには、痛みを感じにくいのでしょうね。
思想的な菜食主義者にはなれそうにない私は、
そういった矛盾を抱えていくしかないのだな、
と思っています。

投稿: hanano | 2016年9月22日 (木) 23時49分

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