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2016年11月27日 (日)

藤田嗣治

このブログのプロフィールのところにある絵は、
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、
藤田嗣治(ふじた つぐはる)の『カフェにて』です。


エコール・ド・パリを代表する画家のひとりであり、
フランスでもっとも有名な日本人画家、藤田嗣治。

私の大好きな画家の一人です。


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彼が東京に生まれたのは、今からちょうど
130年前の今日、11月27日でした。

今年は生誕130年記念の展覧会が各地で開催されていたので、
その作品を実際にご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。



藤田の誕生日の今日は、彼についてのお話を少しさせて
いただきたいと思います。

ただ、一人の画家の人生について書くとなると、
ブログ一記事のボリュームでは、とても足りないことでしょう。

かなり端折った内容に(それでも、そこそこ長く)なりそうですが、
興味とお時間のある方は、どうぞお付き合いくださいね。



*・゜゜・*:.。..。.:*・*:゜・*:.。. .。.:*・゜゜・**・゜゜・*:.。..。.:*・*:゜・*:.。


藤田嗣治は、1886年(明治19年)11月27日、
東京牛込に、4人兄弟の末っ子として生まれました。

陸軍軍医総監を務めた父の嗣章をはじめ、
親族には多数の軍医関係者がいましたが、藤田自身は
軍人を志すよりも、絵を描くことを好む少年でした。



父の理解のもと、1905年に東京美術学校西洋画科に入学。


東京美術学校を卒業し、パリへと渡ったのは
1913年、26歳の時でした。

キュビズムやシュールレアリズムなど、当時の日本では考えられない
ような表現に出会い、その自由さに魅せられた藤田でしたが、
パリの最初の数年間は、食費にも事欠き、絵を燃やして暖をとるような
貧困に耐えながら、自分自身の絵を一心に模索する研鑽の日々でした。

モディリアーニ、スーティンらと親しくなり、
ピカソやアンリ・ルソーと知り合ったのもこの頃のようです。



ところで、もう何年も前、藤田が1917年から1924年まで住んだ
モンパルナスのドランブル通り5番地にあるアパルトマンを
訪ねたことがありました。


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当時の画家仲間たちが集ったカフェの「ラ・ロトンド (La Rotonde)」や
「ル・ドーム (Le Dome)」からも近いその建物は、ちょうど
改修工事中でしたが、通りに面した正面の壁には、

「画家のフジタ(1886-1968)が1917年から1924年までの間
この建物で暮らし、仕事をした」

と書かれたプレートが掲げられていました。



2つの世界大戦にはさまれたこの時代は、第一次世界大戦の解放感と
好景気の高揚感に満ちた「狂乱の時代」(アネ・フォール:Annees Folles)と
呼ばれ、たくさんの異国の画家や詩人、小説家たちがパリを訪れ、
そこで暮らしています。

当時、モンパルナスはパリの知識人や芸術家らの中心地でした。

若き日の藤田は、モディリアーニやスーティン、シャガールやキスリング、
パスキンら、未来の大画家たちと日夜モンパルナスのヴァヴァン交差点近くの
カフェやバーに集い、絵の売れない貧しい生活の中、飲んで騒いで、
芸術についての議論を繰り返しました。



やがて、世に出るきっかけとなった1917年のシェロン画廊での
最初の個展の後、1919年にはサロン・ドートンヌに初入選、
1921年には出品作品3点が大人気を博し、画家・藤田は
一躍時代の寵児となります。


おかっぱ頭に特徴的な丸メガネ、大きな金のイヤリング。
芸術家仲間らとの乱痴気騒ぎのパーティーでは、女装して
着物をまとい、日本の民謡や踊りを披露する・・・

そんな彼は、その名前の綴り(Foujita)から、フランス語で「お調子者」を
意味する「FouFou(フーフー)」と呼ばれ、フランス中の注目を集めましたが、
実はお酒がまったく飲めなかったといわれています。

また、必ず絵を描いてから出かけるよう、自分自身を律していたとも
いわれ、そこからは、画家としての彼の強い意志を感じます。


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 (当時の写真:中央奥左寄りの丸メガネが藤田です)



そんな時代の作品のひとつ、
『タピストリーの裸婦』(1923)

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日本画の技法を油彩に取り入れた、「乳白色の肌」と呼ばれる
独特の質感(後の研究によって、ベビーパウダーが使われていた
ことが判明しました)を持つ彼の絵は画壇の絶賛を浴び、
エコール・ド・パリを代表する画家の一人となりました。



昔、私が学生として滞在していたパリ国際大学都市の
日本館(Maison du Japon)にも、この時代の藤田の絵が2点ありました。


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1階の大サロンの壁にある『欧人日本へ渡来の図』 (左)と
玄関を入ったホール正面の『馬の図』(右)
(写真は日本館のウェブサイトより)


日本館の建設に私財を投じた実業家の薩摩治郎八の依頼により
1929年に制作されたものです。

毎日学校を終えて帰ってくる度、コンセルヴァトワールの留学生などが
時々ピアノを練習している大サロンの絵を横目に眺めながら、
『馬の図』の前を横切ってエレベーターに乗る・・・

これらの絵を、毎日身近で当たり前のように感じていた当時は、
今思えば、とても贅沢な時間だったと思います。




ちょっと話が逸れましたが、この時代を経た藤田は、
1931年にブラジルに向かい、2年間にわたって中南米を旅行します。

各地での個展は大きな賞賛を浴び、ブエノスアイレスの展覧会には
6万人が訪れ、サインのために1万人が列をなしたといわれています。


中南米の旅は彼に新たな色彩感覚を与えました。

1932年に描かれた『町芸人』では、乳白色の肌や繊細な線描は姿を消し、
鮮やかな色彩とエネルギーが溢れています。

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中南米への旅の後、何度かの帰国を経て、
第二次世界大戦が勃発し、ナチスのフランス侵略を機に、
1940年、藤田は、妻とともに再び日本に戻ります。


高い評価を受けていたフランスから祖国に戻った藤田に対する
日本画壇の態度は、当初、冷たいものでした。

そこには、日本独特の保守的で内向きな姿勢や、
藤田のフランスでの成功に対する嫉妬もあったのかもしれません。



第二次大戦中の日本軍部は、記録や国民の戦意高揚のため、
多くの作家や画家たちに従軍記事を書かせたり、戦争記録画
(いわゆる「戦争画」)を描かせたりしていました。

軍の「依頼」というよりも「命令」に近いものだったのでしょうか。
そんな「従軍画家」と呼ばれた画家たちの数は、80人を超えていたそうです。

藤田が最初に依頼を受けたのは、小磯良平らとともに出向いた
1938年の中国での漢口攻略戦の取材で、その後、南方へも派遣され、
数々の戦争画を残しました。



フランスから帰国した祖国の冷たい空気の中、当初は気乗りしなかった
戦争画を精魂込めて描くうち、そこに新たな表現を見出した藤田を、
やがて日本の美術界は認めるようになります。


フランスにあっても、「日本人」としてのアイデンティティと誇りを
常に持ち続けた藤田にとって、陸軍美術協会理事長に就任し、
自身の作品を評価されたことは、やっと祖国に認められたような
気持ちだったのでしょう。



私が彼の戦争画を初めて見たのは、ちょうど10年前、
生誕120年にあたる2006年に開催された「藤田嗣治展」でした。


そのうちのひとつ
『アッツ島玉砕』(1943)

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アリューシャン列島の暗い空の下、雪の山々を背景に
累々と重なる兵士の死体。

後であらためて触れますが、戦後の日本で、戦争を鼓舞したとして
批判を受けることになった戦争画の代表作です。



戦争画の目的の一つは戦意高揚だといいますが、
私がこの作品から感じるのは、戦場の極限状態と
残虐で凄惨な悲しみだけです。


「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」と藤田が言うこの作品は、
実際の取材によるものではなく、彼の想像力が描いた世界です。

多くの戦争画を描いた当時の藤田の心境は、結局のところ
本人以外には本当にはわかりませんが、 例えばこの作品を描いた彼の心は、
戦意高揚のためや、または、その逆の反戦というイデオロギーではなく、
意識的か無意識かは別として、「芸術として純粋に人間の本質を描き出す」
というところに向かっていたのではないか・・・と、私はそんなふうに感じました。

描かれた当時、この絵の前で涙を流し、手を合わせる人が絶えなかったと
いわれていますが、それは、この絵が伝えるものが、単なる戦意高揚ではない
ということなのではないでしょうか。



1945年、第2次世界大戦が終結。

日本は敗戦国となり、陸軍美術協会理事長だった藤田は、
GHQから戦争画の調査と徴集を任されました。

これは、美術的価値のある作品を収集しようとする
GHQの意図だったのでしょうが、戦争画を描いた多くの画家たちは、
戦争に協力した戦犯とされることに怯えていました。


一方、戦後の日本画壇は、手のひらを返したように、
戦争画を描いた画家を糾弾し始めました。

終戦の翌年に内田巌(1948年に日本共産党に入党)を初代書記長として
発足した日本美術協会は、陸軍美術協会理事長であり多くの戦争画を
描いたとして藤田を批判し、その戦争責任を通告しました。


その背景には、ヨーロッパでの成功に対する嫉妬やその才能への妬み、
GHQへ協力した姿勢への反感もあったのでしょう。

多くの画家が保身に走る中、日本美術界における「戦犯」として非難され、
その罪を一人で背負わされた藤田は、戦争協力者のスケープゴートに
されたともいえます。



一度は受け入れられたと思った祖国に裏切られたと感じた藤田は、
大きな衝撃と失望、怒りを抱えながらも、多くを反論することなく、
その責任を一人で背負い、再び日本を離れます。


「絵描きは絵だけを描いてください。
仲間げんかをしないでください。
日本画壇は早く国際水準に到達してください」

1949年3月、日本を発つ前、藤田が残した言葉です。



「私が日本を捨てたのではない。日本が私を捨てたのだ。」

彼は、そんな言葉もまた残しています。




日本を後にした藤田が向かった先は、
パリではなくニューヨークでした。

「戦犯」であるという噂のせいかどうかは定かではありませんが、
フランスへの渡航許可よりも先に、アメリカへの渡航許可が
下りたためでした。

手違いのため許可が遅れた妻の君代夫人は、
その2か月後にニューヨークへ向かっています。




戦争責任を問われ、追われるように日本を離れた藤田が、
祖国を捨てるという決断をして、 パリへと向かう前に
立ち寄ったニューヨーク。

『カフェにて』は、その状況下で描かれた作品です。


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カフェのテーブルに頬杖をつく、藤田独特の乳白色の肌をした
黒いドレスの女性。

テーブルの上には、書きかけの手紙が置かれています。


実はこの作品には微妙な違いのあるいくつかのバージョンが存在していて、
私がここに掲載しているのは、そのうちで一番好きなものです。


パリの日常を思わせるカフェは、フランスという国の文化を
象徴しているのでしょう。

そこに座り、少し憂いのある表情で、頬杖をつく女性。
手元の手紙は書きあぐねているのか、インクが滲んでいます。


この絵の中には、祖国を捨てざるをえなかった藤田の悲しみや、
異邦人としての孤独、フランス、パリへの郷愁、
そして、芸術への尽きない思いが投影されているように
私には感じられます。



翌年、1950年にニューヨークを後にし、パリへと戻った藤田は、
1955年にフランス国籍を取得し、洗礼名のレオナール・フジタ
(Léonard Foujita)を名乗ります。


そして、1968年1月にチューリッヒで没するまで、
二度と日本の地を踏むことはありませんでした。




戦後、藤田が日本を去ってから、日本美術界における彼の存在は、
長く封じられたままでした。

藤田の没後も、君代夫人は、「正しく評価しない以上、忘れて欲しい」と、
作品の日本公開を拒み続けていました。

夫人の協力がようやく得られ、その作品が国内で紹介されて
評価されるようになったのは近年のことです。


生誕120年にあたる2006年には、先に述べた藤田嗣治展が、
東京国立近代美術館を皮切りに、各地で開催されました。




*・゜゜・*:.。..。.:*・*:゜・*:.。. .。.:*・゜゜・**・゜゜・*:.。..。.:*・*:゜・*:.。



「私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。
私は世界に日本人として生きたいと願う。
それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う。」


生前そう語った藤田が生まれてから、
今日でちょうど130年。

130年後の今の日本の状況を、
彼はどんなふうに感じるのでしょうか。

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コメント

hananoさん、こんばんは。

hananoさんがプロフィールに使っていた絵画については偶々知っていました(題名は知りませんでした)

20年以上前にフランスを訪ねたときにランスのノートルダム・ド・ラ・ペ教会(フジタ礼拝堂)のことを知りました。このような日本人がフランスで活躍していたことにビックリしたことと、日本を離れた経緯も知り複雑な思いでこの画家のことは記憶に残っていたのです。

昨年?でしたでしょうか、テレビで藤田嗣治画伯の「アッツ島玉砕」について詳しく放送していました。

この絵をみて、いわゆる戦争を鼓舞するような作品では無いことは理解出来ました。これが戦意昂揚に向かったことにはならなかったのでしょうが、その絵と自分の家族を思い涙した日本人も多かったのかも知れません。

藤田さんが日本を発つ最後に述べた言葉が印象的ですね。「絵描きは絵だけ描いて下さい」・・おそらく時代や周囲に迷わされることなく自分の役割を果たすことだけ考えればいいと伝えたかったのではないかと考えます。
とても本質的な部分かも知れません。

時代に翻弄される小さな私達ですが、それでもまっとうに生きてゆければと願っています。

投稿: omoromachi | 2016年11月27日 (日) 22時33分

藝術をまったく理解できない私が語る資格はないのでしょうが、「アッツ島玉砕」は素人目に見て、戦意高揚の絵には見えませんね。藤田自身はこの絵について何か語っていないのですか?

投稿: オジンガーZeit | 2016年11月28日 (月) 09時58分

omoromachiさんnote
こんばんは^^
omoromachiさんは、ランスのノートルダム・ド・ラ・ペ教会もご存じだったのですね。
私はまだ訪れたことがありませんが、いつか実際に足を運んで、
藤田の創り出した空間を感じてみたいと思っています。
我が家にはテレビがありませんので、残念ながらおっしゃられている
番組は知りませんでしたが、「アッツ島玉砕」について
詳しく紹介されていたとのこと、とても興味深いです。
彼が日本を去る時に残した言葉も、とても心に残りますね。
「絵描きは絵だけ描く・・・」
状況は異なっても、人が置かれた環境で、その本分をただひたすらに
全うしようと努める、それは、人間のあり方の本質かもしれませんね。
(昨日、あまりにざっと書いた記事でしたので、今日少しだけリライトしました)


オジンガーZeitさんnote
こんばんは^^
私も芸術とは関係のないところで生きている人間ですので、
そういった意味では、あれこれ語る資格はないのかもしれませんが、
それぞれが真摯に心に感じることは、何であれ本物だと思っています。
「アッツ島玉砕」を描いた藤田の心は、本当のところは本人にしか
わからないのかもしれませんが、多くの人がその前で手を合わせたという
この作品について、「この絵だけは、数多く描いた作品の中の
最も会心の作だった」と語っていたそうです。
この絵だけは・・・というところに、彼の気持ちが少し感じられる気もしました。
(昨日、あまりにざっと書いた記事でしたので、今日少しだけリライトしました)

投稿: hanano | 2016年11月29日 (火) 01時09分

hananoさん


「カフェにて」
いつ観ても名品ですね。

猫や、晩年の子供シリーズも素敵です。
私も藤田先生の小さなエッチングを所蔵しておりますが、いいですねー。

藤田先生については、
書き出せば限がないのでhananoさん同様に差し控えます。
名実ともに世界的な画家です。

かの地の教会で、どうぞ安らかに。


銀瀧

投稿: 銀瀧 | 2016年11月29日 (火) 12時56分

hananoさん こんばんわ

数年前、ランスのフジタ礼拝堂に行ってきました。
本当に小さな礼拝堂ですが、壁面全体に彼のフレスコ画が描かれていて、中にはフジタ自身の姿も。

この礼拝堂壁画制作の疲労が、フジタの体にダメージを与えて死期を早めたともいわれていますね。

完成からしばらくして、ここに彼と君代夫人の遺骨が納められました。

魂がそこに存在するかのような空間で、しばし時の経つのを忘れて佇んでいたことを思い出します。
 

投稿: gloriosa | 2016年11月29日 (火) 20時27分

銀瀧さんnote
女性の眼差しや、醸し出す空気のせいなのでしょうか、
「カフェにて」は、なぜか心を惹かれてやまない絵です。
数々の猫の絵や子供たちの絵も、本当に素敵ですよね!
藤田自身も大の猫好きだったためでしょうか、猫の魅力や
しなやかさ、「猫らしさ」が生き生きと伝わってきます。
子供の絵も可愛らしくて、「小さな職人たち」のシリーズなどは
いくら見ていても飽きません。連作のポストカードを額に入れて部屋に飾っています。
子供のいなかった藤田が、「自分だけの小供だ」というように、
彼の愛情が感じられる絵ですね。
銀瀧さんはエッチングを所蔵しておられるとのこと、羨ましい限りです。
素人の勝手な感想ですが、藤田の繊細で美しい線は、
銀龍さんの絵ともどこか通じるところがあるように感じます。


gloriosaさんnote
こんばんは。
gloriosaさんはランスの礼拝堂にいらっしゃったのですね。
実物の絵を目の前でご覧になって、その空間を肌で感じられて、
さぞかし素晴らしい経験だったことでしょうね!
その時のことは記事にしていらっしゃったのでしたっけ?
もし書かれていたのなら、ぜひさかのぼって拝読したいです。
短期間に仕上げたと聞きましたし、最晩年の精魂込めた作品だったのでしょうから、
確かに彼の身体には過酷な仕事だったのかもしれませんね。
それでも、自分の精神世界のような空間を作り上げた藤田は
画家として幸せだったのでは、というのは勝手な想像でしょうか。
その場所で、ご婦人と永遠の眠りについている彼の魂は
きっと安らかであるだろう、と信じています。

投稿: hanano | 2016年11月30日 (水) 00時18分

hanano様

フジタ礼拝堂の記事は私のブログに掲載しています。2011年11月4日付けです。URLを張り付けておきますが、これで移行しない場合は、私の旧ブログの左下「カテゴリー」欄にある「フランス・ランス」の部分をクリックしてください。訪問記が出てきます。よろしく。

http://jun-gloriosa.cocolog-nifty.com/blog/cat46093275/index.html

投稿: gloriosa | 2016年11月30日 (水) 10時49分

こんにちわ。
先日、お聞きした絵ですよね。
見た時に、マネの「フォリー・ベルジェールの酒場」を
思いだしました。人生をあきらめたような虚ろな表情が似ていたからです。心に残りますね。

「乳白色の肌」は、ベビーパウダーが使われていたのですね。驚きです!
藤田さん、必ず絵を描いてから出かけるよう、自分自身を律していたとは…見習わなくては。
長い記事、ありがとうございました。
皆さんそれぞれに違ったところに感動していて勉強になりました。confident

投稿: 由津子 | 2016年11月30日 (水) 17時20分

gloriosaさんnote
記事をお知らせいただきどうもありがとうございます。
さっそく伺って読ませていただきました。
いつものgloriosaさんの記事と同様、美しく鮮明な写真と
的確にわかりやすくまとめられた文章から、礼拝堂の雰囲気を
しっかりと感じることができました。
私が想像していたよりもずいぶん小さな空間のようですが、
まさに藤田の世界ですね。本当に彼の魂をそこに感じられるようです。
素敵な記事をどうもありがとうございました。


由津子さんnote
こんばんは^^
「フォリー・ベルジェールの酒場」の女性と「カフェにて」の女性、
今までまったく結びついていませんでしたが、そう言われると
印象的な眼差しには、共通するものがあるような気がしますね。
ただ、私には「フォリー・べルジェール・・」の女性バーテンダーの表情は、
人生をあきらめたようには感じられず、「カフェにて」の方は、
憂いの中にも、どこか希望も感じられるようなものに見えました。
きっと正解はないのでしょうが、いずれにしてもどちらも
とても印象的で、心に残りますね。
「乳白色の肌」の秘密ですが、私には画材のことはよくわかりませんが、
下地に炭酸カルシウムと鉛白を混ぜた絵の具を塗り、さらにタルクを塗りこんで
いたようで、そのタルクが和光堂のシッカロール(ベビーパウダー)だったそうです。
みなさんのコメントからは私も新たに知ることが多くて、
とても楽しく興味深く、また勉強にもなります。
どうもありがとうございます。

投稿: hanano | 2016年11月30日 (水) 22時38分

hananoさんの取り上げる記事内容はいつも格調高く、それでいて読む側に判りやすい。そして勉強になります。
絵画に馴染んでいない方でも要領よくまとめたこの記事を読んで藤田嗣治の事を判った方が多いのではないでしょうか。
フジタの絵は日本人なら誰もが受け入れられる要素を具えていますね。藤田の引く線は浮世絵などに共通する日本人ならではの線だと思います。繊細で美しくムードを持った線がフジタの魅力で、この芳醇な線は案外わけなくフジタは描いたのでしょう。つまり天才なのでしょうね。色や他の部分では苦労したかもしれませんが。

あの当時の画壇は現在と違い保守的で、他の国で名を成した画家を受け入れる度量を持っていなかったようですね。
何しろ当時は印象派全盛期でみなその流れに乗っていたのでまったく毛色の変わった絵を描くフジタを受け入れなかった。もう一つの見方は激しい嫉妬です。
芸術家は嫉妬深いですね。はるか上を行くものを嫌います。
ゴメンナサイ。長くなりました。この辺で止めておきますcoldsweats01

投稿: おキヨ | 2016年12月 1日 (木) 23時03分

こんばんは(^^♪

改めて、hananさんの、
各分野にわたる造詣の深さに感服しますconfident
早くにこちらに寄せて頂いたのですが、
軽々にはコメントできないような気になりまして、
失礼しておりました。

藤田嗣治につきましては
詳しくはなくても存じてましたが、
最近TVのある番組で、
藤田嗣治作の象嵌が施されたテーブルが紹介されており、
あまりに素敵なので、思わず「欲しい!」なんて(笑)
才能あふれる方だったのですね。
人を引き付ける魅力いっぱいの芸術家ですねshadow

「カフェにて」好きです♡

投稿: はなのいろ | 2016年12月 3日 (土) 00時11分

hananoさん 素敵な記事を有難うございます。
藤田嗣治画伯のことは名前を聞いたことがあるぐらいで、ほとんど絵や人となりは知らなかったのですが、このような人生を歩んだ人ということが良くわかりました。
いつか、藤田画伯の絵を見る機会があれば、どのような時代に描かれたのかも併せてみてみたいと思います。
それにしても、「私は世界に日本人として生きたいと願う。それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う。」の言葉は心に刺さりました。
身内の評価ばかりをいつも気にしていながら、外圧があると反論もロクにできずに従ってしまう・・・。今の日本を見たら、藤田画伯はやはりがっかりするのでしょうね。

投稿: Khaaw | 2016年12月 3日 (土) 08時07分

おキヨさんnote
こんばんは^^
数日不在にしていたもので、コメントのお返事が
すっかり遅くなってしまってごめんなさい。
大好きな藤田のことは、書き出せばついつい長~い記事になりそうでしたので、
かなり端折った表面的な内容になってしまいましたが、
それでも過分なお褒めの言葉をいただいて、ありがたく、
そしてちょっと照れくさくも感じておりますcoldsweats01
以前、何かで藤田がさっと線を引くところを見たことがありますが、
ほんの一瞬の一筆で、見事に鮮やかな形を描き出したのは驚きで、
強く感銘を受けました。本当に天才なのでしょうね。
美術界の空気は、おキヨさんならよくご存知でしょうね。
保守的な雰囲気や嫉妬は確かにあったのでしょう。
「芸術家は嫉妬深い」ものなのですか。
自分の才能を客観的に見つめなければならない面も必ずあるでしょうし、
創造とは、なかなか厳しい世界ですね。


はなのいろさんnote
こんばんは^^
いえいえ、決して私は造詣の深い人間などではなくて、
自分の興味のあることのみ関心を持つ人間です。
興味のないことは、一般常識的なことも知らないかも・・・?coldsweats01
それはさておき、コメントをありがとうございました。
いつでもお気軽に言葉をかけていただけると、とても嬉しいです!
象嵌のテーブル、丸メガネや封筒などが施されたものでしょうか?
確かに、いかにも藤田を思わせるモチーフで、素敵ですねshine
私も欲しくなります~happy01


Khaawさんnote
こんばんは^^
こちらこそ、記事をご訪問いただき、コメントをどうもありがとうございます。
藤田嗣治は、その作品はもちろん、人物的にもとても魅力を感じる画家です。
本人としてはかなり大変な人生だったのかもしれませんが、
日本でも近年きちんと評価されるようになり、嬉しく感じます。
ここでは紹介していませんが、多くの猫の絵も魅力的ですし、
晩年に子供を描いたシリーズなどもとても素敵ですよ。
私自身はまだ訪れたことがありませんが、フランスのランスには
彼が壁面にフレスコ画を描いた礼拝堂があり、そこもまた
素晴らしい空間のようです(ここにコメントしてくださっている方の
中には、訪問された方もいらっしゃいますね)
「私は世界に日本人として生きたいと願う・・・」という言葉は
私もとても印象に残りました。そして、私自身もそうあれたら・・・
と思いました。

投稿: hanano | 2016年12月 3日 (土) 19時13分

こんばんは(^o^)/!

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

ご無沙汰しています。お元気ですか?
私のほうは姉が母の介護を交代でしてくれるようになり半年・・・、少しずつ自分を取り戻しつつあります。

投稿: 慕辺未行 | 2017年1月 2日 (月) 23時07分

慕辺未行さんnote
こんばんは。
新年のご挨拶をいただいていたのに、
ここ2カ月ばかり全くブログに向かう時間がなく、
こんなにもお返事が遅くなってしまって本当にごめんなさい。
「少しずつ自分を取り戻しつつある・・・」
なんて嬉しい言葉でしょう!
ずっとずっと心配していましたが、きっとご自身の力で
ひとつ何かを乗り越えられたのでしょうね。
またあとでブログも訪問させていただきます。
遅ればせながら、こちらこそ、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

投稿: hanano | 2017年2月 2日 (木) 23時25分

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