2016年11月27日 (日)

藤田嗣治

このブログのプロフィールのところにある絵は、
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、
藤田嗣治(ふじた つぐはる)の『カフェにて』です。


エコール・ド・パリを代表する画家のひとりであり、
フランスでもっとも有名な日本人画家、藤田嗣治。

私の大好きな画家の一人です。


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彼が東京に生まれたのは、今からちょうど
130年前の今日、11月27日でした。

今年は生誕130年記念の展覧会が各地で開催されていたので、
その作品を実際にご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。



藤田の誕生日の今日は、彼についてのお話を少しさせて
いただきたいと思います。

ただ、一人の画家の人生について書くとなると、
ブログ一記事のボリュームでは、とても足りないことでしょう。

かなり端折った内容に(それでも、そこそこ長く)なりそうですが、
興味とお時間のある方は、どうぞお付き合いくださいね。



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藤田嗣治は、1886年(明治19年)11月27日、
東京牛込に、4人兄弟の末っ子として生まれました。

陸軍軍医総監を務めた父の嗣章をはじめ、
親族には多数の軍医関係者がいましたが、藤田自身は
軍人を志すよりも、絵を描くことを好む少年でした。



父の理解のもと、1905年に東京美術学校西洋画科に入学。


東京美術学校を卒業し、パリへと渡ったのは
1913年、26歳の時でした。

キュビズムやシュールレアリズムなど、当時の日本では考えられない
ような表現に出会い、その自由さに魅せられた藤田でしたが、
パリの最初の数年間は、食費にも事欠き、絵を燃やして暖をとるような
貧困に耐えながら、自分自身の絵を一心に模索する研鑽の日々でした。

モディリアーニ、スーティンらと親しくなり、
ピカソやアンリ・ルソーと知り合ったのもこの頃のようです。



ところで、もう何年も前、藤田が1917年から1924年まで住んだ
モンパルナスのドランブル通り5番地にあるアパルトマンを
訪ねたことがありました。


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当時の画家仲間たちが集ったカフェの「ラ・ロトンド (La Rotonde)」や
「ル・ドーム (Le Dome)」からも近いその建物は、ちょうど
改修工事中でしたが、通りに面した正面の壁には、

「画家のフジタ(1886-1968)が1917年から1924年までの間
この建物で暮らし、仕事をした」

と書かれたプレートが掲げられていました。



2つの世界大戦にはさまれたこの時代は、第一次世界大戦の解放感と
好景気の高揚感に満ちた「狂乱の時代」(アネ・フォール:Annees Folles)と
呼ばれ、たくさんの異国の画家や詩人、小説家たちがパリを訪れ、
そこで暮らしています。

当時、モンパルナスはパリの知識人や芸術家らの中心地でした。

若き日の藤田は、モディリアーニやスーティン、シャガールやキスリング、
パスキンら、未来の大画家たちと日夜モンパルナスのヴァヴァン交差点近くの
カフェやバーに集い、絵の売れない貧しい生活の中、飲んで騒いで、
芸術についての議論を繰り返しました。



やがて、世に出るきっかけとなった1917年のシェロン画廊での
最初の個展の後、1919年にはサロン・ドートンヌに初入選、
1921年には出品作品3点が大人気を博し、画家・藤田は
一躍時代の寵児となります。


おかっぱ頭に特徴的な丸メガネ、大きな金のイヤリング。
芸術家仲間らとの乱痴気騒ぎのパーティーでは、女装して
着物をまとい、日本の民謡や踊りを披露する・・・

そんな彼は、その名前の綴り(Foujita)から、フランス語で「お調子者」を
意味する「FouFou(フーフー)」と呼ばれ、フランス中の注目を集めましたが、
実はお酒がまったく飲めなかったといわれています。

また、必ず絵を描いてから出かけるよう、自分自身を律していたとも
いわれ、そこからは、画家としての彼の強い意志を感じます。


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 (当時の写真:中央奥左寄りの丸メガネが藤田です)



そんな時代の作品のひとつ、
『タピストリーの裸婦』(1923)

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日本画の技法を油彩に取り入れた、「乳白色の肌」と呼ばれる
独特の質感(後の研究によって、ベビーパウダーが使われていた
ことが判明しました)を持つ彼の絵は画壇の絶賛を浴び、
エコール・ド・パリを代表する画家の一人となりました。



昔、私が学生として滞在していたパリ国際大学都市の
日本館(Maison du Japon)にも、この時代の藤田の絵が2点ありました。


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1階の大サロンの壁にある『欧人日本へ渡来の図』 (左)と
玄関を入ったホール正面の『馬の図』(右)
(写真は日本館のウェブサイトより)


日本館の建設に私財を投じた実業家の薩摩治郎八の依頼により
1929年に制作されたものです。

毎日学校を終えて帰ってくる度、コンセルヴァトワールの留学生などが
時々ピアノを練習している大サロンの絵を横目に眺めながら、
『馬の図』の前を横切ってエレベーターに乗る・・・

これらの絵を、毎日身近で当たり前のように感じていた当時は、
今思えば、とても贅沢な時間だったと思います。




ちょっと話が逸れましたが、この時代を経た藤田は、
1931年にブラジルに向かい、2年間にわたって中南米を旅行します。

各地での個展は大きな賞賛を浴び、ブエノスアイレスの展覧会には
6万人が訪れ、サインのために1万人が列をなしたといわれています。


中南米の旅は彼に新たな色彩感覚を与えました。

1932年に描かれた『町芸人』では、乳白色の肌や繊細な線描は姿を消し、
鮮やかな色彩とエネルギーが溢れています。

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中南米への旅の後、何度かの帰国を経て、
第二次世界大戦が勃発し、ナチスのフランス侵略を機に、
1940年、藤田は、妻とともに再び日本に戻ります。


高い評価を受けていたフランスから祖国に戻った藤田に対する
日本画壇の態度は、当初、冷たいものでした。

そこには、日本独特の保守的で内向きな姿勢や、
藤田のフランスでの成功に対する嫉妬もあったのかもしれません。



第二次大戦中の日本軍部は、記録や国民の戦意高揚のため、
多くの作家や画家たちに従軍記事を書かせたり、戦争記録画
(いわゆる「戦争画」)を描かせたりしていました。

軍の「依頼」というよりも「命令」に近いものだったのでしょうか。
そんな「従軍画家」と呼ばれた画家たちの数は、80人を超えていたそうです。

藤田が最初に依頼を受けたのは、小磯良平らとともに出向いた
1938年の中国での漢口攻略戦の取材で、その後、南方へも派遣され、
数々の戦争画を残しました。



フランスから帰国した祖国の冷たい空気の中、当初は気乗りしなかった
戦争画を精魂込めて描くうち、そこに新たな表現を見出した藤田を、
やがて日本の美術界は認めるようになります。


フランスにあっても、「日本人」としてのアイデンティティと誇りを
常に持ち続けた藤田にとって、陸軍美術協会理事長に就任し、
自身の作品を評価されたことは、やっと祖国に認められたような
気持ちだったのでしょう。



私が彼の戦争画を初めて見たのは、ちょうど10年前、
生誕120年にあたる2006年に開催された「藤田嗣治展」でした。


そのうちのひとつ
『アッツ島玉砕』(1943)

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アリューシャン列島の暗い空の下、雪の山々を背景に
累々と重なる兵士の死体。

後であらためて触れますが、戦後の日本で、戦争を鼓舞したとして
批判を受けることになった戦争画の代表作です。



戦争画の目的の一つは戦意高揚だといいますが、
私がこの作品から感じるのは、戦場の極限状態と
残虐で凄惨な悲しみだけです。


「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」と藤田が言うこの作品は、
実際の取材によるものではなく、彼の想像力が描いた世界です。

多くの戦争画を描いた当時の藤田の心境は、結局のところ
本人以外には本当にはわかりませんが、 例えばこの作品を描いた彼の心は、
戦意高揚のためや、または、その逆の反戦というイデオロギーではなく、
意識的か無意識かは別として、「芸術として純粋に人間の本質を描き出す」
というところに向かっていたのではないか・・・と、私はそんなふうに感じました。

描かれた当時、この絵の前で涙を流し、手を合わせる人が絶えなかったと
いわれていますが、それは、この絵が伝えるものが、単なる戦意高揚ではない
ということなのではないでしょうか。



1945年、第2次世界大戦が終結。

日本は敗戦国となり、陸軍美術協会理事長だった藤田は、
GHQから戦争画の調査と徴集を任されました。

これは、美術的価値のある作品を収集しようとする
GHQの意図だったのでしょうが、戦争画を描いた多くの画家たちは、
戦争に協力した戦犯とされることに怯えていました。


一方、戦後の日本画壇は、手のひらを返したように、
戦争画を描いた画家を糾弾し始めました。

終戦の翌年に内田巌(1948年に日本共産党に入党)を初代書記長として
発足した日本美術協会は、陸軍美術協会理事長であり多くの戦争画を
描いたとして藤田を批判し、その戦争責任を通告しました。


その背景には、ヨーロッパでの成功に対する嫉妬やその才能への妬み、
GHQへ協力した姿勢への反感もあったのでしょう。

多くの画家が保身に走る中、日本美術界における「戦犯」として非難され、
その罪を一人で背負わされた藤田は、戦争協力者のスケープゴートに
されたともいえます。



一度は受け入れられたと思った祖国に裏切られたと感じた藤田は、
大きな衝撃と失望、怒りを抱えながらも、多くを反論することなく、
その責任を一人で背負い、再び日本を離れます。


「絵描きは絵だけを描いてください。
仲間げんかをしないでください。
日本画壇は早く国際水準に到達してください」

1949年3月、日本を発つ前、藤田が残した言葉です。



「私が日本を捨てたのではない。日本が私を捨てたのだ。」

彼は、そんな言葉もまた残しています。




日本を後にした藤田が向かった先は、
パリではなくニューヨークでした。

「戦犯」であるという噂のせいかどうかは定かではありませんが、
フランスへの渡航許可よりも先に、アメリカへの渡航許可が
下りたためでした。

手違いのため許可が遅れた妻の君代夫人は、
その2か月後にニューヨークへ向かっています。




戦争責任を問われ、追われるように日本を離れた藤田が、
祖国を捨てるという決断をして、 パリへと向かう前に
立ち寄ったニューヨーク。

『カフェにて』は、その状況下で描かれた作品です。


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カフェのテーブルに頬杖をつく、藤田独特の乳白色の肌をした
黒いドレスの女性。

テーブルの上には、書きかけの手紙が置かれています。


実はこの作品には微妙な違いのあるいくつかのバージョンが存在していて、
私がここに掲載しているのは、そのうちで一番好きなものです。


パリの日常を思わせるカフェは、フランスという国の文化を
象徴しているのでしょう。

そこに座り、少し憂いのある表情で、頬杖をつく女性。
手元の手紙は書きあぐねているのか、インクが滲んでいます。


この絵の中には、祖国を捨てざるをえなかった藤田の悲しみや、
異邦人としての孤独、フランス、パリへの郷愁、
そして、芸術への尽きない思いが投影されているように
私には感じられます。



翌年、1950年にニューヨークを後にし、パリへと戻った藤田は、
1955年にフランス国籍を取得し、洗礼名のレオナール・フジタ
(Léonard Foujita)を名乗ります。


そして、1968年1月にチューリッヒで没するまで、
二度と日本の地を踏むことはありませんでした。




戦後、藤田が日本を去ってから、日本美術界における彼の存在は、
長く封じられたままでした。

藤田の没後も、君代夫人は、「正しく評価しない以上、忘れて欲しい」と、
作品の日本公開を拒み続けていました。

夫人の協力がようやく得られ、その作品が国内で紹介されて
評価されるようになったのは近年のことです。


生誕120年にあたる2006年には、先に述べた藤田嗣治展が、
東京国立近代美術館を皮切りに、各地で開催されました。




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「私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。
私は世界に日本人として生きたいと願う。
それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う。」


生前そう語った藤田が生まれてから、
今日でちょうど130年。

130年後の今の日本の状況を、
彼はどんなふうに感じるのでしょうか。

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2016年10月30日 (日)

ワヤン・クリ(Wayang Kulit)

旅が大好きです。


もちろん国内旅行も好きですが、やはり心が弾むのは、
文化も習慣も全く異なった、海外の未知の国々へ出かける時。


これまでも、いくつかの国を訪ねましたが、
とても興味があるけれど、まだ訪れたことのない国もたくさんあります。


その一つが、インドネシアです。

特に、ガムラン音楽や舞踊など、バリの伝統的な文化や芸術に
触れることができるという「ウブド」は、ぜひ一度行ってみたいと
長年熱望している憧れの土地です。


このブログを訪問してくださるみなさんの中には旅行好きな方が
多くいらっしゃるので、インドネシアを旅されたことのある方も
きっといらっしゃることでしょう。

私にとっては、まだ訪れたことのない国ですが、
仕事を通じては、インドネシアの方と接する機会が時々あります。


仕事を通じて・・・と言えば、海外の国をビジネス等で訪問する際、
お土産を持参するかどうか、または、どの程度のものを持っていくかは、
私の経験(そう多くはありませんが・・)を振り返ってみると、
国によって結構差があるように感じます。

そんな中で、インドネシアは、かなり、
「お土産文化」の国のような気がしています。



・・・なんだか、前置き的な話がすっかり長くなってしまいましたが、

今日は、しばらく前に来日したインドネシアの方からいただいた
ちょっと変わった「お土産」をご紹介したいと思います。



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みなさんは「ワヤン・クリ(Wayang Kulit)」をご存知でしょうか?


インドネシアのジャワ島やバリ島で行われる、人形を使った
伝統的な影絵芝居のことで、「ワヤン(Wayang)」は「影」を、
「クリ(Kulit)」は「皮」を意味するそうです。

なぜ「皮」なのかというと、影絵芝居で使われる人形が
牛の皮でできているからだとか。

その演目は、「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」など、
古代インドの叙事詩をベースにアレンジされたもので、
現地ではガムランの音色とともに、夜を徹して上演されると
聞きました。



この影絵芝居に、私は以前からかなり興味を持っていたのですが、
その人形を、ある時「お土産」としていただきました。




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名前の由来どおり、人形は革製で、
持ち手となる棒の長さを入れると70センチくらいです。

ワヤン・クリにはたくさんの登場人物がいて、さまざまな種類の人形が
あるそうですが、上の写真の人形は、くださった方によると
「warrior(戦士)」だとか。



全体に細かい穴がたくさん開いていて、
これが影絵となった時に、繊細な細工模様のシルエットとして浮かびます。


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ワヤン・クリの上演では、石油ランプの前に白いスクリーンが張られ、
その間で、ダランと呼ばれる人形遣いが、たった一人で
数々の人形を操ります。

ダランは人形だけでなく、語りや効果音も担当し、
その後ろでは、複数の演奏者によるガムランの伴奏が行われます。



人形の中心についている長い棒は、
スクリーンの前にある座に突き刺すためのもの。

こうすると、人形遣いが一人でも、複数の人形を
スクリーンに登場させておくことができます。



こちらの人形は、
たぶん「スマル(Semar)」というキャラクター。


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ワヤン・クリの主役となる人形は概して細身なものが多いそうですが、
このスマルは、不気味な表情に不格好なスタイルと、
ちょっとグロテスクです。


その異様な姿形に、いただいた時にはちょっと驚きましたが、
スマルは「マハーバーラタ」に登場する勇者アルジュノの従者で
道化師で、守護者でもあるとのこと。


こんな外見ながらも、なかなかの役者らしく、
例えば、夜通し上演されるワヤンで、深夜に観客たちが
眠気を催してきた頃、場面転回でスマルが登場し、
滑稽な問答や痛烈な風刺で観客の眠気をさましたり、
笑わせたりする重要な役割を担っています。


また、スマルは、実は宇宙を支配する最高神ブトロ・グルの兄で、
自身も偉大な力を持つ神であって、人間を守護するために
地上に降りた姿だとも言われているそうです。



そう聞くと、少し違って見えてくる・・・かな?



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ところで、影絵芝居なのに、どうして人形には
鮮やかな彩色がされているのか?
・・・と思った方もいらっしゃるかもしれません。



普通、影絵芝居を見る場合、観客はスクリーンを挟んで、
人形とは反対側から鑑賞することになります。


けれど、ワヤン・クリの場合は、石油ランプの灯りを背景に
人形のシルエットが映るスクリーンの表側と、ダランが
人形を操る裏側の両方から見ることができるのです。


そして、影の映るスクリーンの表側は「現実の世界」や「現世」を、
美しく彩色された人形をダランが操る裏側が「異世界」や「あの世」を
表すと言われています。



影絵の幻想的な様子は、一見「異世界」を思い起こさせますが、
インドネシアの人々の感覚では、「あの世」の方が美しく色鮮やかな
世界で、その影が「現世」なのでしょうか。


表側からか裏側からか、それは観客の好みで自由なようですが、
聞くところによると、インドネシアではダラン側から観るのが
人気だとかいうことで、こちらも興味深いです。




さて、最後に、「結局、実際のワヤン・クリってどんなもの?」
・・・という方のために、YouTubeで見つけた動画をご紹介します。


スクリーンの表と裏側の様子がわかって、実際のワヤン・クリを
見たことがない私も、雰囲気が想像できました。



そして、もう一つ。

こちらはジャカルタのMuseum Wayang(ワヤン博物館)がアップしている動画です。



2時間以上あるので、絶対最後まで見られない気がしますが
(もちろん、私も見てません^^; )、夜通し行われるワヤンの演目は、
あらすじがあるだけで、物語もゆったりしているため、
途中で1時間くらい眠ってしまっても大丈夫なんだとか?


ガムランの音色の中で、うつらうつらと居眠りしながら、
ふと眼を覚ましては、また影絵の世界へ入っていく・・・

そんなゆったりした幻想的な時間が流れる夜には憧れますね。



なので、動画を見ている途中に眠り込んでしまっても、
きっと大丈夫ですよ(笑)

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2016年2月28日 (日)

合田佐和子

数日前、画家の合田佐和子さんが2月19日に
75歳で亡くなったというニュースを目にしました。


「幻想的な作風」といわれる彼女は、1940年に高知市に生まれ、
武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)を卒業後、20代から
オブジェを制作し、また、寺山修司主宰の「天井桟敷」や
唐十郎の「状況劇場」の舞台美術やポスターなども多く手がけました。

廃品を使用した彼女のオブジェは、第2次大戦の空襲によって
廃墟と化した高知の街が原風景になっているとも言われています。


Watchangels1964

「Watch-Angels」(1964年)


・・・というようなことを書きながらも、合田佐和子さんについて
私は決して詳しいわけではありません。


ただ、彼女を初めて知ったのは、もうずいぶん昔のことです。

いわゆるロック好きなバンド少女だった私は、
10代の半ば頃から京都のライブハウスへ出入りして、
ずっと年上の「お兄さん」、「お姉さん」達の音楽仲間に入って、
いちばん年下の「お子さま」扱いをされていました。

年上の彼らからは、私の知らない曲をたくさん教えてもらい、
また、影響も受けたので、自分の年齢よりもかなり上の
世代の音楽も好きになりました。

そんな彼らの中に舞台や美術好きな男性がいて、
私に合田佐和子という画家を教えてくれました。

「ロックマガジン」という雑誌の表紙も書いていたので、
音楽好きな人達にも馴染みがあったのでしょう。

初めて彼女の作品を目にした私は、
自分にはあまり記憶のない、ちょっとアングラな70年代の香りと、
その幻想的で退廃的な雰囲気に、少し背伸びした感じもして、
惹かれたことを覚えています。


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「マレーネ・ディートリッヒ」(1973年)


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「くわえタバコのディートリッヒ」(1973年)


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「ルー・リード」(1977年)


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寺山修司演出「中国の不思議な役人」のポスター(1977年)


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唐十郎の戯曲「吸血鬼」の文庫本表紙


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「Louise Brooks」(1984年)



1991年に朝日新聞で連載された中上健次の小説の挿絵では
毎回目だけを描いて話題になった、ということなので、
「眼」に対する思い入れも多分にあったのでしょうね。


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挿絵として描かれた連作「眼」(1990~1991年)のドローイング


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「マレーネの眼」(2006年)

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「90度のまなざし」(2003年)



そういえば、ずっと昔、京都の古本屋で
彼女の作品集「ポートレート」(1980年)を買ったことを、
突然思い出しました。

きっと、まだどこかにあるはず・・・

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